味噌かなんかで、火葬場の隠坊達からひそかに手に入れて調製されてたものかも知れない。
母はその薬のことを聞いて、溺れる者が藁屑にでも取付くような風に、一途に信用しきったものらしい。そして、父へは勿論誰にも内密にして、自分で薬を買いに出かけて行った。が僕にだけはひそかに打明けてくれた。其後父がそれをのませられて、夥しく下痢したものを、或る暗い晩に、母は僕に龕燈提灯を持たして、屋敷の隅の竹籔の影に埋めてしまった。そして恐い眼付で睥めながら、誰にも云うんじゃありませんよと念を押した。それで僕は今日まで黙っていたが、つい口が滑ってしまったのだ。が話というのはその薬のことじゃない。
母はその薬を買いに一人で行ったのだが、父が病気で寝てるし、誰にも内密なものだから、どうしても日帰りに帰って来なければならなかったらしい。それで何かの口実を設けて、夜中の二時か三時頃に出かけていった。夜中の二時か三時と云えば、丁度|丑時参《うしのときまい》りの時刻じゃないか。実際その時母は、丑時参りでもするような甲斐甲斐しい気持だったに違いない。
村から鉄道の駅まで行く四里の田舎道は、どんな処を通っていたのか僕は今覚えていない。がただ、村から半里ばかり行った所に、長い長い堤防があって、両方から一丈余の葦が生い茂ってる中を、どうしても通りぬけなければならなかったことだけを、僕ははっきり覚えている。なぜかって、僕はその先まで母について行ったのだから。
母がどうして其処まで僕を連れていってくれたかは、今はっきりしていないが、兎に角僕は馳けるようにして、母の側にくっついて歩いていった。夏のことで、もう東が白むのに間もあるまいというので提灯もつけずにいた。空が綺麗に晴れて、星が一杯散らばっていて、暗い中にぼーっとした星明りだった。母は着物の裾を端折って、脚半に草履ばきのいでたちで、黙ってすたすたと歩いてゆく。そして一度も僕の手を引いてくれない。それでも僕は不平でなかった。父の薬を買いに、母と一緒にこうして夜道をする、というそのことだけで胸が一杯だった。
「お母さん、もっと早く行こうよ、もっと早く……。」
「そう急がないでもええ。夜中から出て来たから……。」
僕達は長い堤防にさしかかっていた。両方に高く生い茂ってる葦の葉が、道の上に垂れかかって、丁度隧道のようになっていた。所々に蜘蛛の糸が引張られていて、それが顔にかかって気味悪かった。葉末の露が着物の袖を濡らした。それでも不思議なことには、葦の葉を押し分けて通ってるのに、かさともさらりとも葉擦れの音がしなかった。しいんとしたそして爽かな夜で、葦の葉の隧道の天井の少し開いてる所から、きらきら輝いてる星が見えていた。
「随分長い堤ですねえ。」
「ああ長いよ。」
それっきり母はまた黙って歩いてゆく。僕も後れまいと足を早めた。がいくら行っても同じ堤防で、なかなか向うまで出られそうになかった。こんな所にぐずぐずしているうちに、夜が明けてしまやすまいかと、僕は気が気でなくなってきた。昔は追剥が出たと聞いたことのあるようなその堤防に、いつまでも引っかかってたらどうなるだろう。
「夜が明けやしないかしら。」
「まだなかなかよ。」
それでも僕には、もう東の空がほんのりと白んできたように思えた。そして実際、不意に葦の茂みが無くなって、その高い堤防の上から、向うにぽつりぽつりと真白な花の咲いてる蓮田が見渡された時、振返ってみると、東の空の裾がぼーっと薄赤く染っていた。
「ほら。」
僕が立止って眺めたので、母も立止って眺めた。そして、ここらで一休みしようというので、僕と母とは露の冷たい草の上に坐った。東の空が色づいてきたというだけで、まだあたりはぼーっとした星月夜だった。
僕は何にも云うことがなくて、母の側に黙って屈んでいた。そして、葦の葉の長い隧道をくぐってきた間、母が一度も僕の手を引いてくれなかったことを、ぼんやり思い出していた。
それから僕はどうして母に別れて一人で家に帰ったか、さっぱり覚えていない。或は其処まで母について行ったのも、夢だったかも知れないような気さえする。それでも、夢にしては余りにはっきりしすぎている。その時のことが細かな点まで浮彫のように頭の中に浮んでくる。
果してそれが本当だったか夢だったか、僕は母に尋ねてみようと思ってるが、遠くにいる母にわざわざ手紙で問い合せるほどのことでもないので、今もってそのままになっている。然し僕の感じから云えば、確かに本当のことだったのだ。
なに、全く夢のような話だって、まあ待ち給え、だんだん面白い話になるから。だがまあ一寸煙草を一服してからにしよう。
三
中学の三年級の時だった。僕は或る春の闇夜に、山裾の道を二里ほど歩いたことがある。
その頃僕等の学校では、昔の蛮風が残っていて、裏面はともかくも表面だけでは、女のことを口にするのを卑劣だとして、その結果多少男子同士の風儀が乱れていた。と云ってもそれは重に口先だけのことで、実際はさほどでもなく、実行の方面はやはり女性に向っていた。ただ女性の方は誰も皆秘密にしていて、仲間での噂話は、誰彼は誰彼に目をつけてると、そういったことが重だった。
こう云えば君は笑い出すかも知れないが、僕だって上級の或る男から目をつけられたことがある、この顔でね……。だがその頃は僕ももっと見栄えがしたものだよ。その代り僕の方でも、同級の或る男に目をつけていた………と云っちゃ語弊があるが、まあその男に好感を持ってたものだ。向うでも僕に好感を持ってることがよく分っていた。そして向うに云わせると、却って僕の方に目をつけてたと云うかも知れない。二人はよく運動場の隅で話し合ったり、互に往復したりしたものだ。二人共どちらかというと温和な方で、文学が好きで、感傷的だったのだ。
え、実行はだって、馬鹿なことを云っちゃいけない。アクチヴにもパッシヴにも、一度だってあるものか。第一そういう頃の同性愛というものは、実に他愛ない馬鹿げたもので、青春期の漠然とした憧憬の気持の上に立った空想で出来上っているので、実行なんかへまで進むだけの力もないし、それ自身実行を目指しているものでもない。云わば相手を空想の踏台にするだけのことだ。空想の対象は、ずっと遙かな曖昧模糊とした所にあるのだ。
所で僕には、互に好感を持ち合ってる男が同級のうちに一人いた。そして春の休暇に、一緒に四五日の旅行をする約束をした。僕からその男の郷里の家へ誘いに行って、そして一緒に登山するつもりだった。
するとその日、天気は幸によかったが、田舎の不完全な石油発動汽車が遅着したために、それと連絡してる本当の汽車に乗り後れた。そこの汽車がまた数少くて、二時間半も停留場で待たせられた。その上、向うの駅で下りると雷雨なんだ。もう日は暮れかかってくる。僕は不案内な土地に一人ぽつねんとして、全く途方にくれてしまった。
幸にも、客があって一台の馬車が出るというので、僕はそののろいがた馬車に五里ばかり揺られていった。がそれから先は馬車が行かない。友の家まではまだ二里余りあるという。もう日が暮れて二時間の余になる。星の光も見えない曇り空の闇夜なんだ。小さな宿場の見すぼらしい宿屋の燈火が、ちらちら瞬いて招いてるように思われる。僕はよっぽどその中へはいってゆこうかと思った。然し今か今かと待っていてくれる友のことを想像したり、その晴やかな而も憂わしい笑顔を思い浮べたりすると、たとい遅くなってもその日のうちに行きたかった。早く行って一晩語り明したかった。で遂に宿屋の方を思い切って、小さな提灯をぶら下げて二里の道を進みだした。
提灯を売ってる店で詳しく道筋を聞いてはきたが、初めての土地のことだし、闇夜ではあるし、道が次第に山裾の方へ高まって、路傍の草が繁くなるにつれて、僕は堪らなく心細い気持に沈んでいった。高い山か低い丘かそれの見当さえもつかず、雑木林のうち続いてる坂道を、真暗な闇に包まれて提灯の火だけを頼りに、而も教わった道を迷わないように用心しいしい、とぼとぼと辿ってゆく心細い気持のなかで、僕は友の姿を恋人かなんぞのように胸中に描いて、自ら元気をつけつけ歩いていった。それでも二里の道が馬鹿に遠い。初めての田舎道の遠いことは、君なんかには想像もつくまい。
そのうちに道がこんどは下り坂になって、だいぶ行くと平らになった。でも青草が半ばまで生え込んでいて、車の轍の浅いところを見ると、人通りの少い道らしかった。いつのまにか山裾を離れて、ゆるやかな河流に沿って、細々と遠くどこまでも続いている。
ふと気がついてみると、前方に何やら妙な音がしていた。不思議に思いながらそれでも力を得て、足を早めて追っかけてゆくと、空の荷車を一人の男が引いてゆくのだった。真黒な着物に草鞋ばきの農夫体の男で、帽子も被らずただ手拭で鉢巻をして、燈火一つつけないで、真暗な中をがらがら空車を引張っている。全くの空車で、縄一筋のっかってはいない。
僕は変な気がして、少し間を置いてついてゆくと、男は僕の提灯の火に気付いてか、ひょいと振向いた。その顔立は分らなかったが、ぎくりとしたらしいのが様子に見えた。僕も何だかぎくりとして、咄嗟の間に尋ねかけた。
「あの、一寸お尋ねしますが……。」そして、友人の村を名指した。「そこ迄ゆくには、この道を行ったらいいでしょうか。」
「そうだよ。」
「まだ遠いんでしょうか。」
「もうじきだ。」
素気ない返辞ではあったが、まさしく人間の声音だったので、僕は安心するとともに元気づいて、すたすたと通り越した。その僕をやり過しながら、じろりと見向いた彼の眼が、闇の中に異様に光ったようだった。が僕は気にも留めないで、とっとっと歩いてゆくと、後ろから空の車が、小石まじりの道にがらがらついてくる。早く歩けば歩くほど、同じ早さでがらがらついてくる。それがやがて気になりだして、せめて話でもしようと思って、僕は足を少しゆるめながら、それでも何だか後を振向けないで、真直を向いたまま、友人の姓を名指して知ってるかと尋ねてみた。
「知らねえよ。」
ぶっきら棒に云いすてて、後はただ空車の音だけが、闇夜のしいんとした中に響いてくる。僕はまた云ってみた。
「よく闇の夜に燈火《あかり》もつけないで車が引けますね。」
「馴れてるから引けるだよ。」
それっきりもう話もなくて、二人は長い間黙って歩いていった。空車の音だけが、がらがらがらがら呆けた音を立てている。聞き馴るれば馴るるほど気にかかってくる音だった。この男は一体何だろう、とそんなことを僕は考え初めた。そのうちに遠くから、ごーっと堰の水音が聞えてきた。初めは何の音だか分らなかったが、近づくにつれて愈々それだとはっきりすると、変に僕はぞーと寒気《さむけ》を感じた。独りでに足が重くなって早く歩けなかった、がらがらがらがら、すぐ後に空車の音がやってくる。
堰の近くになった時、其処は田圃より少し小高い道になっていたが、ふいに空車の音が止んだ。はてな、と思って振向くと、男は片手で車の柄を支え、片手で着物の前をめくって、提灯のかすかな光にも白くはっきりと分るほどに、勢よくしゃあーと飛していた。僕は一寸呆気にとられたが、自分でも何だか用を足したくなって、道端から側の低い田圃の方へ、同じく勢よくやっつけてやった。
用を足してしまって、不思議にもその男へ一寸親しみを持ちかけて、心持ちに足を止めてると、男は頬骨の張った赤黒い顔に――僕はその時初めて彼の顔を見たのであるが――人なつっこい和らぎを浮べて、がらがらと足早に追っついてきた。
「見馴れねえ人だと思って用心していただが、わしの考え違えだった。」
いきなりそう云いかけて、わけを話してくれた。――そこの堰で、身を投げるか落ちこむかして死んだ若い旅人があった。そして時々、その亡霊だかその臓腑を食った河童だかが、夜更けに通りかかる者をなやますのだそうだった。車を引いて通っていると、車が次第に重くなってくることがある。そいつが車に乗っかるから
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