分が腕を抱えて連れて歩いてた筈の彼女が、影も形も見えなかった。おや、と思ったとたんに、ぞーっと髪の毛が逆立った。そして僕はもう夢中になって駆け出した。
何が仕合せになるか分らないものだ。夢中に駆けたために僕は、危く乗り後れる所だった列車に間に合った。それにしても、あの女のことはいくら考えても今以て分らない。まさか狐につままれた訳でもないだろうし……。
なに、全く狐につままれたような話だって、それはそうには違いないが、僕に残ってる印象はそんな他愛もないものではないんだ。がまあそんなことはいいや、こんどはもっと変梃なのを聞かしてあげよう。一寸煙草を一服吸ってから……。
五
これはつい二三年前のことなんだ。僕は変に生活に退屈を覚えだして、毎日こつこつとつまらない仕事をしてるのが、味気ない生き甲斐のないことのように思えて、何かこうぱっとした明るい異常なものがほしくなっていた。
僕の二階の窓から、青桐の茂み越しに、すぐ隣家の座敷が見下せた。縁側に萎れかけた軒葱《のきしのぶ》の玉を一つ吊して、狭苦しい薄暗い室の中で、四十歳ばかりなのと十四五歳ばかりなのとが、多分母と娘とであ
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