いい場所で、横向きに首を差出して眺めると、向うの山から下手の谷間まで、月の光で一目に見渡された。対岸の涯には夜目に仄白い滝が掛っている。
 僕はその景色に暫く見とれていた。すると、僕の横をすたすた通り過ぎた者がある。はっとして振向くと、若い女が一人で見向きもせずに通って行ったのだった。白足袋に草履を結いつけたその足先に、提灯の火がちらちらとさして、それが間もなく向うの曲り角に見えなくなってしまった。後はひっそりした静かな夜で、月が照っており溪流の音が響いてるばかりだった。
 僕は夢でもみたようにぼんやりしていたが、だいぶたってから変にぶるぶるっと身震いがした。恐ろしさとも苛立ちとも分らない気持だった。……後で気付いたことなんだが、温泉から僕は一人の人にも出逢わなかったし、追い越した者も追い越された者もなかったのだ。それから推して考えると、彼女は僕より後に温泉を発って僕を追い越してしまったのか、またはどこか遠くの道からやって来たかに違いない。が、何れにしても変である。
 然しその時僕はそんなことは考えもしなかった。秋の夜の山道で若い女から追い越された、その一寸名状し難い感情で一杯になって
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