してるくらいだから、そんなことには馴れていて平気だったし、それに月もやがて出る筈だった。
 僕はすたすたと、前日の豪雨に洗われた山道を下っていった。途中で真暗になって一寸提灯をつけたが、やがて東の山の端に大きな月が出て来た。溪流の音が深い谷間に響き渡っている。暗い木影から出る毎に、薄靄の上に蒼白い月の光の流れてる谷間の景色が、眼の下にすぐ見渡される。そのあたりから冷々とした夜気が匐い上ってくる。九月末といえば山奥ではもう秋なんだ。秋の月夜の景色は実に凄いような美しさだった。
 然し僕はその景色をゆっくり眺める隙はなかった。十時の列車に乗り後るれば、一晩後れることになるのだった。爪先下りの曲りくねった道を、出来るだけ足を早めて下りていった。所々に崖崩れがしていた。
 そして凡そ半分くらい、温泉から二里半ばかり行った所に、一軒の掛茶屋があった。八時少し前の時刻だったが、山の中の八時と云えばもう真夜中も同然で、茶屋の婆さんは里へ下りたと見えてしんとしていて、閉め切った表戸に腰掛が一つ片寄せてあった。僕は一寸一休みするつもりで、その腰掛を拝借して煙草を吸った。掛茶屋があるくらいだから見晴らしの
前へ 次へ
全39ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング