覚えていない。がただ、村から半里ばかり行った所に、長い長い堤防があって、両方から一丈余の葦が生い茂ってる中を、どうしても通りぬけなければならなかったことだけを、僕ははっきり覚えている。なぜかって、僕はその先まで母について行ったのだから。
母がどうして其処まで僕を連れていってくれたかは、今はっきりしていないが、兎に角僕は馳けるようにして、母の側にくっついて歩いていった。夏のことで、もう東が白むのに間もあるまいというので提灯もつけずにいた。空が綺麗に晴れて、星が一杯散らばっていて、暗い中にぼーっとした星明りだった。母は着物の裾を端折って、脚半に草履ばきのいでたちで、黙ってすたすたと歩いてゆく。そして一度も僕の手を引いてくれない。それでも僕は不平でなかった。父の薬を買いに、母と一緒にこうして夜道をする、というそのことだけで胸が一杯だった。
「お母さん、もっと早く行こうよ、もっと早く……。」
「そう急がないでもええ。夜中から出て来たから……。」
僕達は長い堤防にさしかかっていた。両方に高く生い茂ってる葦の葉が、道の上に垂れかかって、丁度隧道のようになっていた。所々に蜘蛛の糸が引張られていて
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