はもう恐ろしくも何ともなかった。白狐のお稲荷様の使だ。僕の屋敷の中に祭ってあるお稲荷様が、僕を迎いに白狐を寄来されたんだ、そう思ってみると、何だか急に豪くなったような気がして、もう蝋燭の燃えつきかけてるのも気にならなくなった。
 後でそのことを話すと、母はそれを白兎だろうと云った。然し僕は白狐だったと云い張った。実際今でも白狐だったと思っている。
 それだけの話なんだが……。なに、そんなお伽噺なんか面白くもないって、そりゃそうかも知れないが、然し君、人生は先ずお伽噺から初まるんだ。そこで、此度はも少し面白いのを聞かせよう。が一寸、煙草を一服吸ってからだ。

      二

 前の話から一年か二年後のことだった。僕の父が肺病にかかって寝ついてる時のことなんだ。
 僕の父は痩せてこそいたが、平素は至極頑健なたちで、随分不摂生な生活をしても身体に障らなかった。それが不意に肺結核にとっつかれて寝ついた。何でも友人に結核の人がいて、その死際から葬式まで一切世話をしてやったので、その時に感染したのだとの話もあるが、そんなことはどうだか分ったものじゃないし、またこの話とも関係のないことだ。
 で、父が肺病で寝ついたので、母の心配は大したものだった。十里も離れた都会から名医を迎えたり、新聞広告のあらゆる薬を取寄せてみたり、出入の人に頼んで鼈や鰻を絶やさなかったり、山羊を飼ってその乳を搾ったりして、出来るだけの薬や滋養分を与えたが、父の病気は少しもよくなる風はなかった。そのうち、村から三十里ばかり離れた所に、肺病に対する秘伝の妙薬があるということを聞き込んで、それを買いに自身で出かけたのである。
 其処へ行く最も近道は、まだ交通の開けない昔のことなので、四里の田舎道を歩いていって、それから汽車に乗って、その先がまだだいぶあるとのことだった。何しろ、その妙薬をのんで病気がなおったという村の或る古老が、抽出の中から探し出してきてくれた古い薬袋の裏の、怪しい処書の文字を頼りに、漠然と見当をつけて出かけてゆくのだから、まるで夢をでも掴むような話なんだ。そしてその妙薬なるものが、実に変梃なものだった。それを服用すると、二十四時間のうちに、体内のあらゆる黴菌が死んでしまって、その毒気や汚物が、一度に下痢と共に排出され、残ったのは腫物となって吹き出されるというのだ。今考えると、それは或る人間の脳味噌かなんかで、火葬場の隠坊達からひそかに手に入れて調製されてたものかも知れない。
 母はその薬のことを聞いて、溺れる者が藁屑にでも取付くような風に、一途に信用しきったものらしい。そして、父へは勿論誰にも内密にして、自分で薬を買いに出かけて行った。が僕にだけはひそかに打明けてくれた。其後父がそれをのませられて、夥しく下痢したものを、或る暗い晩に、母は僕に龕燈提灯を持たして、屋敷の隅の竹籔の影に埋めてしまった。そして恐い眼付で睥めながら、誰にも云うんじゃありませんよと念を押した。それで僕は今日まで黙っていたが、つい口が滑ってしまったのだ。が話というのはその薬のことじゃない。
 母はその薬を買いに一人で行ったのだが、父が病気で寝てるし、誰にも内密なものだから、どうしても日帰りに帰って来なければならなかったらしい。それで何かの口実を設けて、夜中の二時か三時頃に出かけていった。夜中の二時か三時と云えば、丁度|丑時参《うしのときまい》りの時刻じゃないか。実際その時母は、丑時参りでもするような甲斐甲斐しい気持だったに違いない。
 村から鉄道の駅まで行く四里の田舎道は、どんな処を通っていたのか僕は今覚えていない。がただ、村から半里ばかり行った所に、長い長い堤防があって、両方から一丈余の葦が生い茂ってる中を、どうしても通りぬけなければならなかったことだけを、僕ははっきり覚えている。なぜかって、僕はその先まで母について行ったのだから。
 母がどうして其処まで僕を連れていってくれたかは、今はっきりしていないが、兎に角僕は馳けるようにして、母の側にくっついて歩いていった。夏のことで、もう東が白むのに間もあるまいというので提灯もつけずにいた。空が綺麗に晴れて、星が一杯散らばっていて、暗い中にぼーっとした星明りだった。母は着物の裾を端折って、脚半に草履ばきのいでたちで、黙ってすたすたと歩いてゆく。そして一度も僕の手を引いてくれない。それでも僕は不平でなかった。父の薬を買いに、母と一緒にこうして夜道をする、というそのことだけで胸が一杯だった。
「お母さん、もっと早く行こうよ、もっと早く……。」
「そう急がないでもええ。夜中から出て来たから……。」
 僕達は長い堤防にさしかかっていた。両方に高く生い茂ってる葦の葉が、道の上に垂れかかって、丁度隧道のようになっていた。所々に蜘蛛の糸が引張られていて
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