が、そんなことはどうでもいい。僕はたった一人で提灯をつけて一里の道を帰っていった。もう日はとっぷりと暮れて、月の光が冴えきっていた。月夜に提灯をつけるというのは、一寸聞いたら可笑しいか知らないが、田舎の人は夜道をする時には、どんな明るい月夜にも必ず提灯をつけるものだ。森の中にはいったり月が曇ったりする時の用心のためもあろうが、それよりも、そのぽつりとした蝋燭の光が、足許二三尺だけを輝らす弱々しい蝋燭の光が、何だかこう自分を導いてくれる光明のように思えるからだ。それほど、田舎の広々とした平野は淋しい不気味なものなんだ。たとい月の光が千里を照らすというほど煌々と輝いていても、その光は物影とくっきり際立って見られる都会のと違って、眼の届く限り一面に降り濺いでるせいか、空の明るいわりに地面は妙にぽーとして、物に漉されたような頼りないものになってしまって、足許が変に心もとなく感ぜられる。例えばじかにさす電燈の光は、どこかはっきりと力強いが、あれに紗の布でも被せてみ給え、どんな高燭の光でも、室の中が明るいわりに畳の目はぼんやりしてくる。云わば盲いた光なんだ。広々とした田舎の月の光がやはりそうだ。明るいわりに足許が変に覚束ない。
 で僕は提灯の火を頼りに、疲れた足を一生懸命に早めて歩いた。町から半里ばかりの間は、可なりの街道で、ぽつりぽつり人家も見えていたが、それから先は別れ道になって、大きな森をぬけ広い畑地を横ぎって村に着くまで、昼間でさえも人通りの稀な、人里離れた狭い道だった。
 森にさしかかる頃から、僕はもう一心に提灯の光を見つめたまま、ぞーっと背後から寄ってくる恐ろしさに身を竦めて、息をこらして突き進んでいった。深い木立の影があたりを包んで、梢から洩れ落ちてるらしい点々とした月の光が、いくら眼を足許にばかり据えていても、真黒なものや仄白いものをちらちらと、眼瞼の縁の方へ押し込んで来た。そちらを見ればなお恐いし、見まいとすればなお不気味になって、音を立てずに出来るだけ早めてるつもりの足が、がくりがくりと宙を踏むような思いだった。
 それでも漸く森を通りぬけ、ぱっと開けた畑地に明るい月の光を見て、ほっとして馳けるような心地で足を早めてる時、僕は蝋燭の火がじじじ……と燃えつきかけているのに気付いた。町を出る時新らしい一本の蝋燭をつけていて、それで大丈夫家に帰れると思ってたのに、そして実際帰れる筈だったのに、どうしたわけかもうそれが無くなりかけている。其処からは明るい田圃道ではあるけれど、前にも云った通り、やはり提灯の火がないと心細いのだ。僕は泣きたいような気持になって、遙か十町ばかり向うにこんもり茂ってる村の木立を、ちらりと上目がちに見やっておいて、出来るだけ足を早めて歩き出した。
 すると、森の大きな真黒い影が……というほどはっきりしたものではなく、何かこう形態《えたい》の知れない不気味な影が、同じ早さですぐ背後にくっついてくる。風のように音もなく、背中にぴったりくっついてくる。ゆっくり歩けばそいつもゆっくりとなるし、早く歩けばそいつも早くなる。恐くて恐くて、とても後ろを振返る元気などは出ない。命とたのむ提灯の火は、じじじ……と燃えつきようとしている。
 僕はその時くらい恐ろしい思いをしたことはない。がどうにか歩き続けられたのは、父がその道を夜遅く歩き馴れてるという考えからだった。僕の父は始終出歩いていて、自然と町で酒を飲むことなんかも多かったが、いくら夜が更けても、もう明け方近くなっても、またいくら酔っ払っていても、大抵は一人でその一里の道を歩いて帰って来た。而も田舎の人に似合わず、闇の夜でも提灯もつけずに、白鞘の短刀を懐にして、平気で歩いて来たのでるる[#「来たのでるる」はママ]。それを母が心配して、二人でいざこざ云ってるのを、僕は幾度か耳にしていた。
 で僕は、父が何度も通った道だ、始終夜更けに通り馴れてる道だ、とそう心の中で繰返しながら、その一事に縋りついて歩み続けた。それでも用捨なく、恐ろしい影は背後にぴったりくっついてくる。
 そういうことがだいぶ続いた後、もう村まで半分余りも行った頃、背中の影が拭うようにふーっと消えた。おやと思ったとたんに、向うの芋畑の畔の青草の上に、真白な狐が飛んで出た。そしてきょとんとした様子で、僕の方をちらと見やってから、前足を上げて額のあたりにかざしながら、おいでおいでと招くような手付を――足付を二三度して、またぴょんと芋畑の中に飛び込んでしまった。全身真白な艶々した毛並で、芋の葉からはらりとこぼれた露の玉よりも、もっと美しい銀色だった。
 それからしいんとなった。僕は喫驚してあたりを見廻した。月の光が一面に降り濺ぐような晴々とした夜だった。急に四方が明るくなって、胸の中までも明るくなった。僕
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