、それが顔にかかって気味悪かった。葉末の露が着物の袖を濡らした。それでも不思議なことには、葦の葉を押し分けて通ってるのに、かさともさらりとも葉擦れの音がしなかった。しいんとしたそして爽かな夜で、葦の葉の隧道の天井の少し開いてる所から、きらきら輝いてる星が見えていた。
「随分長い堤ですねえ。」
「ああ長いよ。」
それっきり母はまた黙って歩いてゆく。僕も後れまいと足を早めた。がいくら行っても同じ堤防で、なかなか向うまで出られそうになかった。こんな所にぐずぐずしているうちに、夜が明けてしまやすまいかと、僕は気が気でなくなってきた。昔は追剥が出たと聞いたことのあるようなその堤防に、いつまでも引っかかってたらどうなるだろう。
「夜が明けやしないかしら。」
「まだなかなかよ。」
それでも僕には、もう東の空がほんのりと白んできたように思えた。そして実際、不意に葦の茂みが無くなって、その高い堤防の上から、向うにぽつりぽつりと真白な花の咲いてる蓮田が見渡された時、振返ってみると、東の空の裾がぼーっと薄赤く染っていた。
「ほら。」
僕が立止って眺めたので、母も立止って眺めた。そして、ここらで一休みしようというので、僕と母とは露の冷たい草の上に坐った。東の空が色づいてきたというだけで、まだあたりはぼーっとした星月夜だった。
僕は何にも云うことがなくて、母の側に黙って屈んでいた。そして、葦の葉の長い隧道をくぐってきた間、母が一度も僕の手を引いてくれなかったことを、ぼんやり思い出していた。
それから僕はどうして母に別れて一人で家に帰ったか、さっぱり覚えていない。或は其処まで母について行ったのも、夢だったかも知れないような気さえする。それでも、夢にしては余りにはっきりしすぎている。その時のことが細かな点まで浮彫のように頭の中に浮んでくる。
果してそれが本当だったか夢だったか、僕は母に尋ねてみようと思ってるが、遠くにいる母にわざわざ手紙で問い合せるほどのことでもないので、今もってそのままになっている。然し僕の感じから云えば、確かに本当のことだったのだ。
なに、全く夢のような話だって、まあ待ち給え、だんだん面白い話になるから。だがまあ一寸煙草を一服してからにしよう。
三
中学の三年級の時だった。僕は或る春の闇夜に、山裾の道を二里ほど歩いたことがある。
その頃僕等の学校では、昔の蛮風が残っていて、裏面はともかくも表面だけでは、女のことを口にするのを卑劣だとして、その結果多少男子同士の風儀が乱れていた。と云ってもそれは重に口先だけのことで、実際はさほどでもなく、実行の方面はやはり女性に向っていた。ただ女性の方は誰も皆秘密にしていて、仲間での噂話は、誰彼は誰彼に目をつけてると、そういったことが重だった。
こう云えば君は笑い出すかも知れないが、僕だって上級の或る男から目をつけられたことがある、この顔でね……。だがその頃は僕ももっと見栄えがしたものだよ。その代り僕の方でも、同級の或る男に目をつけていた………と云っちゃ語弊があるが、まあその男に好感を持ってたものだ。向うでも僕に好感を持ってることがよく分っていた。そして向うに云わせると、却って僕の方に目をつけてたと云うかも知れない。二人はよく運動場の隅で話し合ったり、互に往復したりしたものだ。二人共どちらかというと温和な方で、文学が好きで、感傷的だったのだ。
え、実行はだって、馬鹿なことを云っちゃいけない。アクチヴにもパッシヴにも、一度だってあるものか。第一そういう頃の同性愛というものは、実に他愛ない馬鹿げたもので、青春期の漠然とした憧憬の気持の上に立った空想で出来上っているので、実行なんかへまで進むだけの力もないし、それ自身実行を目指しているものでもない。云わば相手を空想の踏台にするだけのことだ。空想の対象は、ずっと遙かな曖昧模糊とした所にあるのだ。
所で僕には、互に好感を持ち合ってる男が同級のうちに一人いた。そして春の休暇に、一緒に四五日の旅行をする約束をした。僕からその男の郷里の家へ誘いに行って、そして一緒に登山するつもりだった。
するとその日、天気は幸によかったが、田舎の不完全な石油発動汽車が遅着したために、それと連絡してる本当の汽車に乗り後れた。そこの汽車がまた数少くて、二時間半も停留場で待たせられた。その上、向うの駅で下りると雷雨なんだ。もう日は暮れかかってくる。僕は不案内な土地に一人ぽつねんとして、全く途方にくれてしまった。
幸にも、客があって一台の馬車が出るというので、僕はそののろいがた馬車に五里ばかり揺られていった。がそれから先は馬車が行かない。友の家まではまだ二里余りあるという。もう日が暮れて二時間の余になる。星の光も見えない曇り空の闇夜なんだ。小さな宿場の
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