見すぼらしい宿屋の燈火が、ちらちら瞬いて招いてるように思われる。僕はよっぽどその中へはいってゆこうかと思った。然し今か今かと待っていてくれる友のことを想像したり、その晴やかな而も憂わしい笑顔を思い浮べたりすると、たとい遅くなってもその日のうちに行きたかった。早く行って一晩語り明したかった。で遂に宿屋の方を思い切って、小さな提灯をぶら下げて二里の道を進みだした。
 提灯を売ってる店で詳しく道筋を聞いてはきたが、初めての土地のことだし、闇夜ではあるし、道が次第に山裾の方へ高まって、路傍の草が繁くなるにつれて、僕は堪らなく心細い気持に沈んでいった。高い山か低い丘かそれの見当さえもつかず、雑木林のうち続いてる坂道を、真暗な闇に包まれて提灯の火だけを頼りに、而も教わった道を迷わないように用心しいしい、とぼとぼと辿ってゆく心細い気持のなかで、僕は友の姿を恋人かなんぞのように胸中に描いて、自ら元気をつけつけ歩いていった。それでも二里の道が馬鹿に遠い。初めての田舎道の遠いことは、君なんかには想像もつくまい。
 そのうちに道がこんどは下り坂になって、だいぶ行くと平らになった。でも青草が半ばまで生え込んでいて、車の轍の浅いところを見ると、人通りの少い道らしかった。いつのまにか山裾を離れて、ゆるやかな河流に沿って、細々と遠くどこまでも続いている。
 ふと気がついてみると、前方に何やら妙な音がしていた。不思議に思いながらそれでも力を得て、足を早めて追っかけてゆくと、空の荷車を一人の男が引いてゆくのだった。真黒な着物に草鞋ばきの農夫体の男で、帽子も被らずただ手拭で鉢巻をして、燈火一つつけないで、真暗な中をがらがら空車を引張っている。全くの空車で、縄一筋のっかってはいない。
 僕は変な気がして、少し間を置いてついてゆくと、男は僕の提灯の火に気付いてか、ひょいと振向いた。その顔立は分らなかったが、ぎくりとしたらしいのが様子に見えた。僕も何だかぎくりとして、咄嗟の間に尋ねかけた。
「あの、一寸お尋ねしますが……。」そして、友人の村を名指した。「そこ迄ゆくには、この道を行ったらいいでしょうか。」
「そうだよ。」
「まだ遠いんでしょうか。」
「もうじきだ。」
 素気ない返辞ではあったが、まさしく人間の声音だったので、僕は安心するとともに元気づいて、すたすたと通り越した。その僕をやり過しながら、じろりと見向いた彼の眼が、闇の中に異様に光ったようだった。が僕は気にも留めないで、とっとっと歩いてゆくと、後ろから空の車が、小石まじりの道にがらがらついてくる。早く歩けば歩くほど、同じ早さでがらがらついてくる。それがやがて気になりだして、せめて話でもしようと思って、僕は足を少しゆるめながら、それでも何だか後を振向けないで、真直を向いたまま、友人の姓を名指して知ってるかと尋ねてみた。
「知らねえよ。」
 ぶっきら棒に云いすてて、後はただ空車の音だけが、闇夜のしいんとした中に響いてくる。僕はまた云ってみた。
「よく闇の夜に燈火《あかり》もつけないで車が引けますね。」
「馴れてるから引けるだよ。」
 それっきりもう話もなくて、二人は長い間黙って歩いていった。空車の音だけが、がらがらがらがら呆けた音を立てている。聞き馴るれば馴るるほど気にかかってくる音だった。この男は一体何だろう、とそんなことを僕は考え初めた。そのうちに遠くから、ごーっと堰の水音が聞えてきた。初めは何の音だか分らなかったが、近づくにつれて愈々それだとはっきりすると、変に僕はぞーと寒気《さむけ》を感じた。独りでに足が重くなって早く歩けなかった、がらがらがらがら、すぐ後に空車の音がやってくる。
 堰の近くになった時、其処は田圃より少し小高い道になっていたが、ふいに空車の音が止んだ。はてな、と思って振向くと、男は片手で車の柄を支え、片手で着物の前をめくって、提灯のかすかな光にも白くはっきりと分るほどに、勢よくしゃあーと飛していた。僕は一寸呆気にとられたが、自分でも何だか用を足したくなって、道端から側の低い田圃の方へ、同じく勢よくやっつけてやった。
 用を足してしまって、不思議にもその男へ一寸親しみを持ちかけて、心持ちに足を止めてると、男は頬骨の張った赤黒い顔に――僕はその時初めて彼の顔を見たのであるが――人なつっこい和らぎを浮べて、がらがらと足早に追っついてきた。
「見馴れねえ人だと思って用心していただが、わしの考え違えだった。」
 いきなりそう云いかけて、わけを話してくれた。――そこの堰で、身を投げるか落ちこむかして死んだ若い旅人があった。そして時々、その亡霊だかその臓腑を食った河童だかが、夜更けに通りかかる者をなやますのだそうだった。車を引いて通っていると、車が次第に重くなってくることがある。そいつが車に乗っかるから
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