れて、贅肉の多い頬をもぐもぐさせながら呟きました。
「そんなこと……いいんですよ。いったい、どうしたというんですか……。困りますねえ……。どうせ、酔っ払った者が壊しますよ。まったく困りますよ。」
「いいえ、責任を果させて頂きます。」
「責任……何の責任ですか。」
「弁償致さなければ、責任が果せません。」
彼女の調子には抗弁し難いものがありました。それでも、それは理解しにくい変梃な事柄でした。更に言えば、不愉快な色合のものでもありました。ちょっとの間、誰もみな口を噤んでしまいました。とはいえ、これをはっきり見聞きしたのは、尾高の近くにいた者だけで、遠くの者はただなにか変梃な冷りとする気配を感じただけでした。
丁度、その場の空気を救うかのように、どんぶりの御飯が出て来ました。
木原宇一は、尾高のところへ行って言いました。
「三浦先生が至急私に逢いたいということですが、なにか外に、社の用はありませんか。」
「ああ三浦さんか。」尾高は卓上の紙幣から解放されたように眉根を開きました。「いずれまた連絡するが、宜しく言っといてくれたまい。」
木原は周囲の人々の思惑に顧慮することなく、ただ自分一人の思いに耽って、そこを出ました。そして進まぬ足でゆっくりと階段をおりて、玄開へ出ました。雪は薄く積ってるきりで、もう降りやんでいました。ちょっと佇んで外套の襟を立てていますと、いつしかそれが如何にも自然らしく、照子が追っついてきて肩を並べました。
「怒っていらっしゃるの。」と照子は尋ねました。
「なんにも怒ることなんかないじゃありませんか。」と木原は答えました。
それは本当のことでした。然し、彼は怒ってはいませんでしたが、満足でもありませんでした。
――手袋もしていない手を、大勢の前で、長い間山崎に任せておくとは、どういうことだろう。但し俺は嫉妬しているのではないぞ。――自分が倒したのでもないウイスキー一瓶を、しかも飲み残しの僅かなものを、弁償する責任があるとは、どういうことだろう。俺の窺知し得ない心理だ。――あの眼鏡の枠縁の光りと、眼眸の光りと、二重の光りが、如何に深く俺の心臓に喰い入ってくることか。俺は泣きたい。
それらの思いを、木原は照子に語りたく、而も言葉は見付からず、ただ黙々として歩きました。
やがて、電車で、超満員の人込みの中に、二人肩を並べて立ってることに、木原は安心と喜びとを感じました。全くの他人の中に、身動きも出来ないほど押し込められてることは、確実な拠り所を持ってるのと同じに感ぜられました。そしてその電車から降りて、広い空間に放たれると、いろいろな不安が湧いてきました。
電話が故障で通じなかったとしても、三浦さんがわざわざ照子を会社まで使によこしたのには、何か理由があったに違いありません。二人でよく話し合い肚をきめて来るようにとの、謎だったのかも知れません。正月のはじめ、屠蘇の機嫌の上とはいえ、照子の父親が、照子ももう二十五歳になったのだから今年中には断然結婚させると、家人たちの前で言ったということを、木原も聞いていました。そしてあの父親のことだから、それは必ず実行するに違いありませんでしたし、既に実行にとりかかってるかも知れませんでした。そのことについて、照子は三浦さんに相談したのでしょうか。彼女は何事も三浦さんに相談しているようでした。もともと、木原が照子と識り合ったのも三浦さんの家でのことであり、初めて愛を語り合ったのも、三浦さんの家からの帰り途でありました。三浦さんは二人の間をうすうす感づいてるようでした。そして或る時、木原に向って、君は本当に照子さんを愛しているのかと、真面目くさって尋ねたことがありましたが、その裏には、既に照子から意中の告白がなされてることが明かでした。場合によっては僕が一肌ぬいでやると、三浦さんは最近に言いましたが、その裏には、照子からいろいろ相談されてることが仄見えていました。照子はなぜ直接に木原に相談しなかったのでありましょうか。
――おう、すべてが三浦さんだ。そして俺は一体何だろう。彼女の愛情の対象ではあっても、彼女の相談相手ではないのだ。
木原は空を仰いで息をつきました。曇ってる上にもはや暮れかけて、ただ茫漠たる思いだけが反響してきました。彼は夢のことを思い出しました。あの時、彼女はなぜいつも黙っていたのでしょうか。あの海岸で、なぜ彼について来なかったのでしょうか。
丘陵地帯の崖上の、空襲による広い焼け跡で、ぽつりぽつりと小さなバラックが建ってる中に、道幅も定かでない昔の街路が真直に通っていました。それを、二人はゆっくり歩いてゆきました。
焼け跡の耕作地をまだらまだらに被っている淡雪を見ながら、木原は言いました。
「照子さん、あなたは本当に私を愛して下さいますか。」
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング