照子も淡雪の方へ眼をやって答えをした。
「何度も誓いました通り、生涯かけてあなたを愛します。」
「生涯かけて……。」
「ええ、生涯決して忘れませんわ。どんなことがあっても決して……。」
忘れない、その言葉を木原は心の中で繰り返しました。そして十歩ばかりして、彼は低い声で言いました。
「あなたは、もう、私と別れるつもりですね。」
照子はちょっと立ち止りました。それから木原の肩にもたれかかるほど身を寄せてきて、ゆっくり言いだしました。
「もう覚悟しておりますの。あなたが一緒に死んでくれと仰言れば、今すぐにでも、御一緒に死にましょう。ええすぐにでも死にますわ。けれど、生きゆくのでしたら、立派に生きたいと思いますの。そのために、影でどんなに苦心してるか、あなたにはお分りになりませんわ。三浦先生にいろいろ御相談していますのも、そのためですの。結婚がもし出来るものなら、立派に結婚したいんですもの。身体一つであなたのところへ飛びこんでゆくのは、あまり惨めすぎますわ。衣類も道具もなく、お金もなく、犬猫のような結婚をして、生涯蔑まれるのは、たまりませんわ。そんなことで生涯蔑まれるのは、女にとってどんなことだか、あなたにはお分りになりませんわ。三浦先生は、よく分って下さいまして、いろいろ力になって下さいますの。きっと、わたしたちのために、よいようにはからって下さいますわ。」
彼女は彼女の真実を言っていました。木原はそれをはっきり感じました。
――然し、それならば、俺は犬猫のような結婚を望んでいたのであろうか。いや俺も人間としての自尊心を持っている。ただ、彼女は、彼女一家は、そして三浦さんも、俺とは種族が違うのだ。
そして何よりも、彼女の言葉の調子が気持ちにひっかかりました。真実を言ってるのではあるが、それが、なにか血の通わない作文みたいに感ぜられるのでした。
舗装してある通路でしたが、所々に損傷があって、雪解けの水溜りを拵えていました。考えこんで歩いてるうちに、木原はうっかりそこへ踏みこんで、片方のズボンの裾を泥まみれにしました。
「あら……。」
照子はハンカチを差出しました。木原はそれを受取って、ポケットに納めました。
「これは貰っておきますよ。」
泥水まみれの足を運んでゆきますと、四辻になりました。その向うの焼け残りのところに、三浦行男の家はありました。木原は四辻の真中に立ち止りました。
「先に行ってて下さいませんか。私はちょっと、その辺で一杯やって、元気をつけてから参ります。」
照子はちらちら光る眼で、じっと木原を見つめました。
「二人一緒に行っては、なんだか変ですよ。すぐにあとから行きます。」
頬の筋肉が震え、眼に涙が出てくるのを、木原は自ら感じて、そのまま向きを変え、四辻を左へ曲ってゆきました。そこの坂の下のあたりに、酒と小料理の店が幾つかあるのを、彼は知っていました。
彼は坂道をおりかけました。背後に照子のことが意識されました。焦茶のオーバーにきっちり身を固め、肉色のストッキング一枚のすらりとした足でつっ立ち、カールした髪の毛の下に眼鏡と眼眸とを光らして、こちらをじっと見ていることでありましょうか。木原は振り向きたい衝動に駆られました。或は、そこの物影に走りこんで、身をひそめて、窺いたくも思いました。照子が後を追って来るかも知れませんでした。然し、彼は歯をくいしばって抵抗しました。
――俺の将来を、俺の陣営を、純粋に保つためだ。四辻をこちらに曲ったことが、俺の今後の道標となるだろう。曲ったのではなく、却って真直に歩いたのだ。あすこを真直に行ったら、俺にとっては曲ったことになったろう。
彼は眼をつぶって歩き、一度は滑ってころび、それから足を早めました。
その坂下の小料理屋で、木原はすっかり酔っ払って、もう三浦行男の家へは行きませんでした。酔いつぶれながら、そして涙ぐみながら、道標とか、照子とか、胸の中で繰り返していました。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「文芸春秋」
1947(昭和22)年4月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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