へ歩いていった。照子は崖上に突っ立って、じっと私を見送っていた。彼女は私について来ることになっていたが、その自然の約束が解かれて、一人崖上に残って私を見送っていた。その彼女を背後に感じながら、私は歩き去った。非情で純粋な酒がたくさん彼方にあった。砂浜は濡れて平らだった。そこへ突然、海水が満ちて、波が寄せてきた。私は足をぬらしながら飛びのいた…。

 夢から出て、木原宇一は足先が冷えきってるのを感じました。そして立ち上ると、はっきり眼がさめて、その場の光景が幕を切って落されたように現出しました。
 ビールやウイスキーを飲んでる者もあり、煙草をふかしてる者もあり、歩き廻ってる者もあり、そして皆賑かに談笑しており、蓄音器も鳴っていました。もう電灯がともっていましたが、光度が低く、室の空気が濁っていて、窓硝子が仄白く浮出していました。片隅に、森村照子もいました。
 照子の姿を認めて、木原は眼を見据えましたが、すぐに納得がゆきました。
 会社の編輯部だけの、新年のささやかな祝宴でした。仕事の関係や物資の関係で延び延びになっていたのが、漸く一月の末に催されたのでした。編輯部の広間をそのまま使って、ちょっとしたお茶の会ということで、菓子に果物にハムの類と最後にどんぶりの食事、その代りにはビールとウイスキーが相当多量に用意されていました。その飲物の豊富なのが知れ、茶目なのがいて、職場ダンスをやろうと提議し、蓄音器まで持ちこまれていました。編輯部員の三十名あまり、女は多く食べ、男は多く飲み、ごく少数の者がレコードに合せて踊りました。来客も自由に迎え入れられましたが、それは殆んどなく、たまたま森村照子が三浦行男からの使いでやって来ますと、むりに引留められました。――画家の三浦行男は、単行本の装幀や雑誌の表紙とカットなどのことで、会社と密接な関係がありまして、編輯部のこの新年茶会の案内を受けていましたが、用事が出来て出られないとかで、森村照子を使にして、ピーナツの特製缶詰五個を届けてきたのです。茶会だからピーナツの缶詰はまあ適当なところでしょうし、三浦行男としてはそれで一応の仁義をつくしたわけでしょうが、然し、文学者などに批評させれば、そこにはなにかセンスの不足が感ぜられるのでした。
 木原宇一は眉をひそめました。そして彼は次にまた一層眉をひそめました。――照子は彼に囁いたのです。
「茶
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