木原は安心と喜びとを感じました。全くの他人の中に、身動きも出来ないほど押し込められてることは、確実な拠り所を持ってるのと同じに感ぜられました。そしてその電車から降りて、広い空間に放たれると、いろいろな不安が湧いてきました。
電話が故障で通じなかったとしても、三浦さんがわざわざ照子を会社まで使によこしたのには、何か理由があったに違いありません。二人でよく話し合い肚をきめて来るようにとの、謎だったのかも知れません。正月のはじめ、屠蘇の機嫌の上とはいえ、照子の父親が、照子ももう二十五歳になったのだから今年中には断然結婚させると、家人たちの前で言ったということを、木原も聞いていました。そしてあの父親のことだから、それは必ず実行するに違いありませんでしたし、既に実行にとりかかってるかも知れませんでした。そのことについて、照子は三浦さんに相談したのでしょうか。彼女は何事も三浦さんに相談しているようでした。もともと、木原が照子と識り合ったのも三浦さんの家でのことであり、初めて愛を語り合ったのも、三浦さんの家からの帰り途でありました。三浦さんは二人の間をうすうす感づいてるようでした。そして或る時、木原に向って、君は本当に照子さんを愛しているのかと、真面目くさって尋ねたことがありましたが、その裏には、既に照子から意中の告白がなされてることが明かでした。場合によっては僕が一肌ぬいでやると、三浦さんは最近に言いましたが、その裏には、照子からいろいろ相談されてることが仄見えていました。照子はなぜ直接に木原に相談しなかったのでありましょうか。
――おう、すべてが三浦さんだ。そして俺は一体何だろう。彼女の愛情の対象ではあっても、彼女の相談相手ではないのだ。
木原は空を仰いで息をつきました。曇ってる上にもはや暮れかけて、ただ茫漠たる思いだけが反響してきました。彼は夢のことを思い出しました。あの時、彼女はなぜいつも黙っていたのでしょうか。あの海岸で、なぜ彼について来なかったのでしょうか。
丘陵地帯の崖上の、空襲による広い焼け跡で、ぽつりぽつりと小さなバラックが建ってる中に、道幅も定かでない昔の街路が真直に通っていました。それを、二人はゆっくり歩いてゆきました。
焼け跡の耕作地をまだらまだらに被っている淡雪を見ながら、木原は言いました。
「照子さん、あなたは本当に私を愛して下さいますか。」
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