れて、贅肉の多い頬をもぐもぐさせながら呟きました。
「そんなこと……いいんですよ。いったい、どうしたというんですか……。困りますねえ……。どうせ、酔っ払った者が壊しますよ。まったく困りますよ。」
「いいえ、責任を果させて頂きます。」
「責任……何の責任ですか。」
「弁償致さなければ、責任が果せません。」
 彼女の調子には抗弁し難いものがありました。それでも、それは理解しにくい変梃な事柄でした。更に言えば、不愉快な色合のものでもありました。ちょっとの間、誰もみな口を噤んでしまいました。とはいえ、これをはっきり見聞きしたのは、尾高の近くにいた者だけで、遠くの者はただなにか変梃な冷りとする気配を感じただけでした。
 丁度、その場の空気を救うかのように、どんぶりの御飯が出て来ました。
 木原宇一は、尾高のところへ行って言いました。
「三浦先生が至急私に逢いたいということですが、なにか外に、社の用はありませんか。」
「ああ三浦さんか。」尾高は卓上の紙幣から解放されたように眉根を開きました。「いずれまた連絡するが、宜しく言っといてくれたまい。」
 木原は周囲の人々の思惑に顧慮することなく、ただ自分一人の思いに耽って、そこを出ました。そして進まぬ足でゆっくりと階段をおりて、玄開へ出ました。雪は薄く積ってるきりで、もう降りやんでいました。ちょっと佇んで外套の襟を立てていますと、いつしかそれが如何にも自然らしく、照子が追っついてきて肩を並べました。

「怒っていらっしゃるの。」と照子は尋ねました。
「なんにも怒ることなんかないじゃありませんか。」と木原は答えました。
 それは本当のことでした。然し、彼は怒ってはいませんでしたが、満足でもありませんでした。
 ――手袋もしていない手を、大勢の前で、長い間山崎に任せておくとは、どういうことだろう。但し俺は嫉妬しているのではないぞ。――自分が倒したのでもないウイスキー一瓶を、しかも飲み残しの僅かなものを、弁償する責任があるとは、どういうことだろう。俺の窺知し得ない心理だ。――あの眼鏡の枠縁の光りと、眼眸の光りと、二重の光りが、如何に深く俺の心臓に喰い入ってくることか。俺は泣きたい。
 それらの思いを、木原は照子に語りたく、而も言葉は見付からず、ただ黙々として歩きました。
 やがて、電車で、超満員の人込みの中に、二人肩を並べて立ってることに、
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