て、嫌な気がしたものだった。
私がばかばかしく千代次に惚れこんでいって、乱脈な生活に陥ってしまったのも、一半の責任は信子の耳にあるように思われる。千代次は薄い素直な耳朶を持っていた。薄倖そうな可憐な耳朶が島田の鬢からのぞいてるのを、私は彼女の頼り無い存在の象徴のように思った。彼女が私の名を叫びながら二階から落ちて死んだ、その声の彼方に、私はいつも彼女の薄い素直な耳朶を思い出すのである。
――茲で一寸註釈をつければ、ここのところはどうも手記の誇張らしい。信子の耳のことから、その耳を中心に筆が滑っていったもののようである。
千代次というのは、村尾が馴染んでいた芸妓で、初めはロマンチックな気持から深入りしたものらしいが、彼が勤めていた商事会社の社長と関係があるとかないとかで、一時切れがちになって、其後、彼の母の死後、どうしたわけか、どちらからも急に深くなっていった。千代次の方はそれでも、商売気をはなれたところへまで陥りはしなかったが、村尾は自暴自棄かと見えるほどに打ちこんでいって、めちゃくちゃに借金を拵えた。そして面白いことには、彼は千代次の前で表面は、いつ別れてもいいし、またいつ一緒
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