社を罷めたまま退職手当を貰いに行かなかったことです。退職手当を貰うということは、単に金銭の問題じゃなくて、長年の勤労生活の清算をすることになるんです。然し今ではもう、その二つとも、どうでもよくなりました。結局つまらないことです。」
 彼のうちに何か新らしい力強いものを感じて、島村は嬉しかった。村尾はなお当時のことを笑いながら話した。
「全く突然のことで、僕も面喰いましたよ。松浦久夫という、以前小さな或るグループを拵えていた仲間で、自由労働者上りの男ですが、僕をいきなり、あの生活から引抜いてくれました。あのままでいたら、僕はぐずぐずに腐ってしまったかも知れません。松浦はふだんはのろのろしてる男ですが、いざとなるとばかに素早いんです。僕が使い残してる金をひったくって、小さな印刷所をかり受け、それから、私の家の道具類で、入用なものはひそかに持ち出し、不用のものは売り払い、女中に暇を出し、行方が分らないようにして引越したんです。ばかに忙しくて、あの手記さえ、書き終える隙がありませんでした。僕はもう全く意志の力がなくて、松浦の云う通りになりました。考えてみると、僕は初めから、ばかげた芝居ばかりや
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