。俺はこれからの生活を一新するんだが、そのためには、世の中のことは凡て下らない関係の上に成立ってるということを腹に据えてかかるんだ、と彼は云った。君たちは実に簡単明瞭な世界に暮してるから仕合せだ、と彼は云った。俺は或る女を愛したいと思ったが、どうしても愛せられなかった、と云って彼は泣いた。俺は昔ある芸者に恋したが、一度芸者なんかに恋した者はもう、頭の複雑な普通の女を愛せられなくなる、これはどうしたことだ、と云って彼は静葉につっかかってきた。俺はどんなことでも出来る、どろぼうでも人殺しでも出来る、そういうことが分ってくるのは恐ろしいことじゃないか、と云って彼は不気味な笑い方をした。要するに、ひどく酔っ払って、泣いたり笑ったりして、黙ってるのが淋しいというように饒舌りたて、静葉にはよく分らないことをいろいろ云って、それでも勘定を忘れずに済して、静葉から自動車にのせられて帰っていった。
 島村が彼の手記を読んで、訪ねていくと、彼は夜逃げ同様に移転した後だった。移転先は分らなかった。方々に迷惑をかけたまま彼は姿を隠した。然しそれは、友人たちにはひそかに恐れられていたことであり、随ってまた、さほ
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