、と尋ねられた。彼はまじめくさって、考えてることがあるからと答え、職を罷めるか罷めないかは自分の自由だが、罷めさせるか罷めさせないかは社長の自由だと云った。それからは、社長はひどく冷淡になり、彼の方を見向きもしなくなった。また或る時、会社の方へ、古賀に関する債権者がやって来たので、月末には全部始末すると云って、その月末という言葉だけを何度も繰返していると、債権者はそのまま帰って行った。また彼は、すばらしい洋服を一着拵えようと考え、その服地や縞柄から、帽子、ネクタイ、靴などのことまで、こまかく想像してみた。そういうことが、淡々と述べられていて、最後に、調子が一変して、少し以前のことであろうが、社長依田賢造の弟がロンドンの銀行に赴任する折、東京駅で彼が見送人受付係の一人となった時のことが、回想されている。その記述を辿ろう。
 名刺受[#「名刺受」は底本では「名剌受」]をのせた粗末な小卓の前に立っていると、多くの紳士淑女たちが、名刺を[#「名刺を」は底本では「名剌を」]差出して丁寧にお辞儀をしていった。名刺を[#「名刺を」は底本では「名剌を」]忘れて、名前を告げながら、顔を赤らめて恐縮してる
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