は立上っていた。明日は用があるからまた後にして下さいと云った。
「いずれ、はっきりしてから、お知らせします。」
 それだけ私は云った。そして彼女と別れてから、掘割の油ぎった汚水を眺めながら、私は自分を嘲ってやった。何とつまらない会見だったろう。凡てのことが何とくだらないことばかりだったろう。
 ――ここで手記は、皮肉な調子の平凡な感想になっている。その感想のなかに、書くにも価しないような些事が並べられている。思うに、種々のつまらない不愉快な事柄が重っていたものらしい。待ってる手紙がいつまでも来なかったり、はんぱな時期に勘定を取りに来る商人がいたり、レインコートの釦がとれたままになっていたり、早く帰りたい時に会社の事務が長引いたり、逢いたくない知人に出逢って長々と話しかけられたり、バスの中に洋傘を置き忘れたり、煙草を吸いすぎて喉を痛めたり、用のある時に社長が来なかったり、其他いろいろなことがあった。そしてそれらの些事と同じ調子で次のようなことが簡単に書かれている。彼が事務を投り出して窓から外を眺めていると、社長から呼ばれた。この頃欠勤がちだし、事務もろくに手につかぬらしいが、どうしたのか
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