た。私は頭を振っただけで黙っていたが、紅茶をすする手が、煙草を持つ指先が、こまかく震えるのを意識し、その震えをとどめることが出来ないのを知った。これは危いと思った。自分は神経衰弱で、夜はよく眠れないし、昼間は頭がぼんやりしているし、食慾がなく、眩暈がする……そんなことをうっかり云い出すかも知れないし、人目がなかったならば、涙を流しながら彼女の前に跪くかも知れないし……。然しながら、私はそんなことで手が震えてるのではなかった。彼女を殴りつけ蹴とばし、思うさま踏みにじってやったら……そしてその醜い耳に唇を押しあててやるのだ、キリストの足に信者が接吻するように……。だが、あなたを愛することが出来ないのが悲しい、と私の中の道化者は云いたそうだった。私はまともにじっと彼女を眺めてやった。彼女を相手にすると、凡てが、二千円の債券も、あの晩の道化芝居も、あの手紙も、彼女の耳までが、凡てがどうしてこう重大になるのか、私には腑に落ちなかった。みんな下らないことじゃないか……。彼女は竦んだように固くなって、無理な硬ばった微笑を浮べた。
「今日は一寸急ぎますから、あした、日曜に、伺ってもよろしいの。」
私
前へ
次へ
全44ページ中35ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング