露というものは人の同情を得はしない。後はそれを無視してかかっていた。そうした彼の心理を推察した者は殆んどなかった。それにまた、彼の当時の心理は可なり平衡を失していたようでもある。手記を辿ってみよう。
 私は自分の周囲に次第に冷かな空虚が出来るのを感じた。人間の緊密な社会的関係が私から遠のいていったのだ。私はそれを却って喜んだ。私はいつしか酒に親しむようになった。黙ってじっと人の顔を見つめる癖がついた。会社へも欠勤が多くなった。

 土曜日の午後四時頃、私は銀座通りで信子の後をつけていた。彼女は日陰になってる人通りの少い方の側を、新橋の方へ真直に、わき目もふらず、草履の裏を見せないですっすっと歩いていた。明るい縞のお召の着物に縫紋の黒の一重羽織をつけてる後ろ姿は、肩が少しいかついが、立派な夫人姿だった。私は彼女の手紙の文句を思い浮べながら、そして胸の中の欝積を新たにしながら、二十間ばかり間をおいてつけていった。十字街にさしかかった時、彼女はストップに会って、十人ばかりの人中に立止った。私は歩き続けて彼女のそばに出た。何か光ったような感じだった。彼女の鋭い視線を正面に受けて、私は丁寧にお辞
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