してあの致命的な醜悪な耳を持って生れたのだろう。私の運命の狂いは、大半は彼女のその耳から由来したと云ってもいい。
 彼女に逢っていると、私はその耳から反撥させられた。彼女は意識的にかどうか分らないが、その耳をなるべく隠すような、少し老けた洋髪に結っていたが、秘密を知ってる私の意地悪い眼は、そんなことにごまかされはしなかった。見まいと思っても、髪の毛をかきわけてまで見つけ出すのだった。腸に穴があいて四ヶ月も病院にはいっていた時、彼女は時々見舞に来てくれたが、私はベットに寝たまま無言のうちに、じっと彼女の耳に眼をつけていて、彼女が振り向くと、はっと顔を赤らめたこともある。そんな時、私は口を利くのが嫌になって、早く帰ってくれればいいと念じることさえあった。母の葬式の時、祭壇の前に立並んでる親戚一同のうちで、彼女の耳だけがしきりに私の意識にからまってきた。前日通夜の折に、お母さんもせめて庄司さんの結婚式までは生きていたかったんでしょうねえと、信子の母が他の人に話してた言葉を、私はふと聞きかじり、私の母が私の妻へと望んでいたのが信子であることを知っていたので、私はそのとっさに、信子の耳を思い浮べて、嫌な気がしたものだった。
 私がばかばかしく千代次に惚れこんでいって、乱脈な生活に陥ってしまったのも、一半の責任は信子の耳にあるように思われる。千代次は薄い素直な耳朶を持っていた。薄倖そうな可憐な耳朶が島田の鬢からのぞいてるのを、私は彼女の頼り無い存在の象徴のように思った。彼女が私の名を叫びながら二階から落ちて死んだ、その声の彼方に、私はいつも彼女の薄い素直な耳朶を思い出すのである。
 ――茲で一寸註釈をつければ、ここのところはどうも手記の誇張らしい。信子の耳のことから、その耳を中心に筆が滑っていったもののようである。
 千代次というのは、村尾が馴染んでいた芸妓で、初めはロマンチックな気持から深入りしたものらしいが、彼が勤めていた商事会社の社長と関係があるとかないとかで、一時切れがちになって、其後、彼の母の死後、どうしたわけか、どちらからも急に深くなっていった。千代次の方はそれでも、商売気をはなれたところへまで陥りはしなかったが、村尾は自暴自棄かと見えるほどに打ちこんでいって、めちゃくちゃに借金を拵えた。そして面白いことには、彼は千代次の前で表面は、いつ別れてもいいし、またいつ一緒
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