なりたいというのが、心の願いでございます。御許し下さいましょうか。(後略。ここには、あの時の約束を守って債券を最もよく役立ててほしいとの意味が述べてあった。)
[#ここで字下げ終わり]
憂欝な打沈んだ私の気持は、この手紙によって、どん底までかき乱された。私は何か燃え立ってくるものを感じた。敵の虚をでも窺うように、手紙をくり返し読んでみたが、明らさまの嘘は見出せなかった。そして信子が本気で真実にそれを書いてることが分れば分るほど、私は苛立ってきた。私はあの時、彼女の唇へではなく、彼女のあの醜い耳へ、なぜ自分の唇を押しあてなかったのだろうか。私はすぐに返事を書きかけたが、そこまでは、卑怯にも、書けなかった。そして第一、茲でもはっきり説明がつかないように、自分の気持をはっきり書き現わすことが出来なかった。幾度も書箋を破き捨てた。じっとしていられないで、家を飛び出して酒を飲みにいった。そして酔っ払ってるうちに、彼女が一瞬間に矜持をすてて私に唇を許したあの時のことが、切りぬいたように浮んできた。恋人があるというのに、何ということだ。ゆき子に対する私のやり方よりも一層下劣ではないか。ざまを見ろ、と私は彼女の手紙に対して云ってやった。耳を見ろ、と私は彼女の高慢ちきな鼻に対して云ってやった。ざまを見ろ、耳を見ろ。そして私は彼女の好意によって得た金で懐がふくらんでるのをいいことにして、知らない土地で蓮っ葉な芸者を二三人よんで遊びほうけ、酔いつぶれてしまった。さんざんあばれたらしい。
翌日私は会社を休んで、ぎんぎん頭が痛むなかで二つの計画を立てた。一つは、支払ったり使ったりしただけの金を拵え、債券を受け出し、それを信子につき返してやること。も一つは、むりにでも彼女の耳にキスしてやること。そして先ず第一の計画の実現に奔走した。少しでも見込みのありそうな友人には相談してみた。だが心の底ではだめだということをよく知っていた。
――註をつければ、彼は親しい友人たちにはみな、信子とのことや債券のことなどを、残らず打明けた。その調子はひどく冷淡で平静だった。そして結局、金のことは駄目だとなっても、そうだろうと思っていたが……とだけ云って苦笑した。金の必要を痛感してるとは見えなかった。出来ないことを確かめればそれでよいという様子だった。人をばかにしてるという印象を友人たちに与えた。冷静な自己曝
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