露というものは人の同情を得はしない。後はそれを無視してかかっていた。そうした彼の心理を推察した者は殆んどなかった。それにまた、彼の当時の心理は可なり平衡を失していたようでもある。手記を辿ってみよう。
私は自分の周囲に次第に冷かな空虚が出来るのを感じた。人間の緊密な社会的関係が私から遠のいていったのだ。私はそれを却って喜んだ。私はいつしか酒に親しむようになった。黙ってじっと人の顔を見つめる癖がついた。会社へも欠勤が多くなった。
土曜日の午後四時頃、私は銀座通りで信子の後をつけていた。彼女は日陰になってる人通りの少い方の側を、新橋の方へ真直に、わき目もふらず、草履の裏を見せないですっすっと歩いていた。明るい縞のお召の着物に縫紋の黒の一重羽織をつけてる後ろ姿は、肩が少しいかついが、立派な夫人姿だった。私は彼女の手紙の文句を思い浮べながら、そして胸の中の欝積を新たにしながら、二十間ばかり間をおいてつけていった。十字街にさしかかった時、彼女はストップに会って、十人ばかりの人中に立止った。私は歩き続けて彼女のそばに出た。何か光ったような感じだった。彼女の鋭い視線を正面に受けて、私は丁寧にお辞儀をした。どちらへ、と私はすまして尋ねた。一寸買物に、と彼女は答えて、なぜか顔を赤らめた。私は威圧的に云った。
「お茶でものみませんか。」
それが、安心したような笑顔で受け容れられたので、私は気持が挫けた。少し歩いて、千疋屋の二階に落付いて、不純なものよりもと彼女が笑って、メロンと紅茶とをあつらえるまで、私はただ彼女のお伴みたいに振舞ってしまった。そして卓子の上と彼女の帯の薬玉《くすだま》模様とに、視線を往き来さしていた。
「私の気持、分って下すって……。」と彼女は云っていた。「御返事もないので、ちょいと、心配してたわ。」
涙ぐんだり悲壮な顔付をしたりしたがる道化者が、自分のうちにぴくぴく動きだすのを、私は一生懸命に押えつけた。そして自分の気持を何か一口に云ってやりたかったが、言葉が見当らなかった。非常な努力をするような気で、彼女の顔を眺めた。少し骨立った額、高慢な鼻、どんな屁理屈でも饒舌りたてそうな薄い唇、そしてそれらが程よく整ってるのが、結局私の趣味に合わないらしいのを、私は初めて発見したかのように眺めた。彼女は私の方を探るように見ていたが、神経衰弱の気味がありはしないかと尋ね
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