い自由な朗かな心境にあることを、自ら喜んでいた。然しこの考えは或は間違っていたかも知れない。私がもし恋をしているか、恋でなくとも何等か一つの愛情を持っていたならば、ゆき子にも信子にも、また他の誰にも、ああいう態度は取らなかったろう。そしてこんな惨めなところに落込むことはなかったろう。極端に云えば、独身でいたのがいけなかったのかも知れない。然しながらまた、自由に遊蕩出来るだけの金を持っていたら、問題はおのずから異る。要するに、貧乏でそして愛人がなかったのがいけないのだ。とはいえ、今は寧ろそのことを感謝したい気持である。
――この一節を考え合せると、前の場面から何かが見落されてるように思われるのである。村尾はまたこういうことも云った。「僕が彼女の醜い耳に誘惑されたことのうちには、実は自分の理性に対する反抗もあったかも知れない。」
結局は自分自身を惨めになすに過ぎなかった信子との事柄は、二千円の勧業債券に対して私を無頓着ならしめた。私はそれについて、大して感謝もしなかったし、また大して躊躇もしなかった。それに元来私は、金銭のことは水量みたいなもので、水準の高い方から水準の低い方へ水が流れこむのは当然のことで、こちらの水準が高くなればこんどは他へ流してやると、そういう呑気な考え方をしがちだった。その上、緒方久平氏が知っていながら、勧業債券なんかを持って来たのは、抽籤という他愛ない僥倖を考えての母と娘の策略だと、大目に見過すことも出来たし、また、会社から借りる方が支払いに便宜だとも考えた。
翌日、早速、母が大事にしていたものですけれど……と云って、社長に頼んでみた。社長は一寸額に皺をよせて考えたようだったが、別に穿鑿もせずに、その担保貸出を取計らってくれた。而も社員だというので特別に、抽籤期はまだ遠いにも拘らず、額面高の貸出をしてくれた。私は二千円の紙幣をポケットにつっこんで、その晩直ちに、急を要するところへ二ヶ所だけ廻って、支払いをすました。そして半分ほど残ったのを、不足ながらも、他の方面へどういう風に割りあてようかと考えた。そういうことが、私の性質からすれば、またこれまでの例としても、朗かに楽しく為される筈であったが、どうしたものか、こんどは却って私を憂欝にした。殆んど諦めていたところへ、思いがけなく道が開けたようなものではあったが、私の心は少しも開けずに益々欝屈
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