ろへ戻ってきた。母はまだ飯を食っていた。
「行ってきますよ。」
云い捨てて表へ飛び出した。
後顧の憂いなし。……書物は売れちゃったと云えばいい。
明るく静かだった。何もかも晴れ晴れとしていた。けれど……不思議に気持がぼやけてしまった。何もはっきり浮んでこなかった。
前日から、長い長い時間がたったようだった。
「嘘、嘘、初めてじゃない。」とあの女は云ったっけ。
なるほど、初めてじゃない……かも知れない、と思うほどつまらなかった。
くそ、面白くもない。
二重眼瞼のちらちらした眼付が、何処を探しても見つからなかった。余り晴れ晴れとしていた。
それでもやっぱり……事実は事実だ。
往来の石ころを、下駄の先で蹴飛して歩いた。ころころとよく転った。
そんなもんだ。そんなものだ、童貞なんて。大切でも何でもないただ円い玉、どこへ転ってゆこうと平気だ。溝《どぶ》の中へでも、青空へでも、勝手に転ってゆけ……。
こつん……こつん……と、下駄の先に当る石ころの音が気持よかった。
昨日俺を連れ出した井上のとこへ行って、どんなもんだい……とこっちから云ってやったら……。或は父と母との前に何も
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