、「さん」をつけ、「ちゃん」をつけ、「子」をつけ、更にまた、「子」に「さん」や「ちゃん」をつけ……あらゆる名前で呼んでみた。そして最後に、八重子……。ちらちらとする眼が微笑んでいた。

 母が二三度起しに来た。上の空で返事をして、やはり頭から布団にもぐりこんでいた。温気に息苦しくなると、頭を覗き出して眼をつぶった。
 我慢出来なくなって起き上った。もう十一時を過ぎていた。
「加減でも悪いんですか。」
「何ともありません。」
 冷たい水で顔を洗った。悲壮な気持だった。……母なんか、家なんか、何もかも、どうとでもなってしまえ。……そのくせ、誰の顔も真正面には見られなかった。むっつりと黙りこくっていてやった。
「御飯は午《ひる》に一緒に食べます。」
 食う気もなかったが、そう云っておいて一寸外に出てみた。
 晴れてはいるが淡い日の光だった。それでも強すぎた。桜の枝に蕾が赤くふくらんでいた。垣根の下に、青い草の葉が三つ四つ、冬を越したのか――そんな筈はないが、もう萠え出したのか――それもおかしいが、力なく首垂れていた。
 薄暗い悲壮な気持にとざされて、胸がしきりに痛んだ。
 広い通りに出て、そこのレストーランにはいった。
「定食。……それから、日本酒を一本くれ給い。」
 うっとりと思いつめた気持のために、装わずして大人《おとな》の態度になっていた。
 片隅に三人の客があった。そちらに背を向けて、白い壁と睥めっこをした。花瓶の半開きの桃の花が、淋しげに淡々としていた。
 ゆっくり酒を飲むつもりだったが、料理の皿が次から次へ早く廻されてきた。
 気の利かないボーイだな。……何とか云ってやろうと思ったが、変に顔を見られる気がして云い出せなかった。それでも、料理はうまかった。チップを奮発してやった。
 一人で……あの家に行って、名差しをすれば、彼女は来てくれる筈だった。……そこへ、大きな地震でも来て、がらがらっとなって、二人だけ生き残って逃げ出す……。
 馬鹿な……。だが、何もかもひっくり返ってしまえ、濛々となってしまえ。
 日の光が恐れられた。……暗く、天地晦冥になってしまえ。
 胸が切なくしめつけられて、きりきり痛んだ。二重眼瞼の眼がちらちらして、目近に微笑んでいた。
 電車や自動車や自転車が、素張らしい勢で走っていたけれど、みな、宙を飛ぶようにふわふわしていた。着飾った女共が
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