如何でございますか。」
 戸の外からお千代の声がはっきりしてきた。湯の加減だったのか。……丁度ぬる加減でよかったが、然し、頭がふらふらしていた。
「丁度いいよ。」
 元気よく答えてやったけれど、それだけで、身を動すのも大儀だった。
「床をとっといて下さい、すぐに寝るんだから。」
 誰にともなく大きな声で云っておいて、湯殿から飛び出しかけた。が、……茶の間をぬけて寝室の方へ行くのには、母の前を通らなければならなかった。着物を抱えて真裸のままで母の前を……。
 そんなこといつだって平気だったんだが……。
 ふと、咽せ返るような追想に、足が竦んでしまった。
 意気地なしめ、なあに……。
 擽ったいような気持で、歯をぎりっと一つやって、猛然と突き進んでいった。
「もう寝むんですか。」
「ええ、頭痛がするんです。」
 云いすてて、柱時計の方を見上げながらのっそりと、それでも九時半頃だと見て取っただけで、裸のまま母の前を通りすぎてやった。が次には小走りになった。
 大急ぎに寝間着をひっかけて、頭まで布団の中にもぐり込んだ。
 とっぷりと水底に沈んだような、落付くところへ落付いた感じだった。そしてそれがなぜか、全身無気力に投げ出されたまま竦んでしまって、身動きが出来なかった。
 一度……或は二度……母が様子を見に来たようだった。が黙っていた……というより、本当にはっきりとは意識しなかった。
 二重眼瞼《ふたえまぶち》の眼がちらちらと動いていた。それが時々じっと真正面から覗きこんできた。
 胸の奥がきりきり痛んでいた。
「あたし、あなたが好きになった。……ね……ねえ……。」
 感情に抵抗してみるつもりだったのが、その「つもり」のために、却って自分の方から落ち込んでいった。
「あたし、何だか顔見られるのが嫌なのよ。」
 畜生……と思って黙ってると、顔が真向になってきた。
「何を考えてるの。」
「困った。……君が好きになりそうだ。」
「そう、嘘にせよ嬉しいわ。」
 二重眼瞼の眼が、瞬くたびに微笑んでいた。それが、なりそうどころではなく、本当に可愛くて好きになった。
 どうしたらいいか分らなかった。
 すぐそこに近々と微笑んでる眼が、いつまでも消えなかった。
 それが、夢にも……現《うつつ》にも……朝まで続いた。他の一切はどうなったって構わない。その眼だけが……。
 八重という名前の下に
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