笑しかないよ。」
そして二人はきょとんとした顔を見合った。
そんなことを話して歩いてるうちに、何処へ行っていいか分らなくなったが、ふと思いついて、植物園へ行ってみた。
桜の花が咲き揃っていて、子供や女の人達がきゃっきゃ云って遊んでいた。二人はその側を通りすぎて、ずっと奥の池の上の、躑躅の間の芝生に坐った。南を受けた斜面なので、足を投げ出してじっとしてると、うとうとと眠くなるような暖かさだった。そしてそこらの藪の中には、蛇や蝦蟇や蛞蝓などがのっそりと匐い出していそうな、もやもやとした温気だった。池にはもう鯉が出てると見えて、麩や煎餅を投げてやってる娘達もあった。
「僕はね、」と恒夫は云った、「何処かに自分の兄弟がいるような気が、いつもしてたんだよ。何処か僕の知らない処に、兄や姉や弟や妹がいて、それにひょっくりめぐり会う、そんなことをよく夢にみたり考えたりしたよ。するとやはりそうだったんだ。君にめぐり会ったんだ。ひょっとすると、僕達の兄や姉や妹なんかが、何処かにいるかも知れない。君にはそんな気はしないの。」
「だって、お父さんは若いうちに死んだんだろう。」
「でもね、お父さんは方々へ転地に行ったり、いろんなことをしたんだよ。そして、僕は小説で読んだんだが、肺病になると性慾が強くなるんだって……。」
云いかけて恒夫は突然顔を赤らめた。それから眼をくるくるさして口早に云い出した。
「だから、まだ方々に子供があるかも知れないよ。僕達二人きりじゃ余り少いや。それをみんな探し出して名乗り合ったら、面白いだろうね。」
「だって、一人でそんなに沢山子供を拵えられやしないよ。」
「拵えられるとも。男は一人で充分なんだよ。動物なんかみんなそうだろう。そして方々に子供を生みっ放すんだよ。」
茂夫は突然大きな声を立てた。
「人間もそうなると面白いな。」
「そして愉快だよ。」
二人はいつしか肩と肩ともたれ合って、互の身体の温みを感じながら、向うの池の縁に立ってる少女達を眺めていた。ぼーっと霞んでる和やかな春の日が、しみじみと大地の上に照りつけていた。
恒夫は不意に云い出した。
「僕達がこうしてる所を見たら、お父さんは喜ぶだろうね。」
「喜ぶとも、屹度。」
「僕は何だか、お父さんは大変豪い人だったような気がするよ。」
「なぜ。」
「なぜだか分らないが、屹度豪かったんだよ。僕はお父さんが好きだ。」
「僕も好き……になったような気がするよ、君に逢ってから……。今のお父さんなんか頑固で嫌いだ。」
「お父さんが生きてたら、僕達は素晴らしく沢山の兄弟になってたかも知れないよ。」
茂夫は驚いたように眼を見張ったが、そのままの顔付で口許に微笑を浮べた。恒夫はじっと空の奥を見入っていた。
恒夫と茂夫とは、どちらからともなく互の学校へ出かけていって、植物園や上野公園や時には日比谷あたりへも、ぶらつき廻った。
学校の帰りが夕方になることが多いのを、母から怪しまれていろいろ尋ねられても、恒夫は何やかやいい加減の口実を並べ立てて平然と空嘯いていた。そして心の中は、吾弟を得たり、といったような晴れやかなもので満たされていた。そして遂には、茂夫を家の中へまで連れて来た。小野田の姓から一字省いて、野田という親友だとふれこんだ。豊山中学の制服だと気取られそうなので、いつも和服に着変えさしてきた。誰も茂夫だと気付く者はなかった。
「どうだい、うまくいったろう。」
茂夫はにこにこしながら首肯いた。
桜や桃の花が散って、萠え立つような新緑に樹々が包まれ初めていた。庭には真赤な躑躅が咲いていた。そのわきに可なりの池があった。池の中に飛び込んでる大きな蛙や蝦蟇を、二人は額にねとねとした汗をにじませながら、長い竿の先でつっ突き廻った。
恒夫は写真帖なんかも持ち出した。
「お祖父さんやお祖母さんが、本当のお祖父さんやお祖母さんでなかったり、お母さんが本当のお母さんでなかったり、またお母さんにいろんな兄弟があったりして、そんなことが一度に分ってきたら、素敵に面白いだろうね。」
そして二人は、おどけたような眼を見合ってくすくす笑った。
「君は額がお父さんで、眼がお母さんらしいね。」と恒夫は云った。
「そう。お父さんは若くて立派だったんだね。」
「そうだよ、僕はちっとも覚えていないけれど……。」
父の写真を子供の時のからずっと並べて一度に眺ると、何だか滑稽な気がして仕方がなかった。祖父や祖母なんかのもやはりそうだった。そしてその感じが、実際の祖父や祖母に接する時にも、頭の隅につきまとって仕方なかった。
二人はどうかすると、祖父の悪い方の碁盤を持って来て、五目並べや囲碁の真似などをして遊んだ。そこへのっそり祖父がやって来て、囲碁の法を教えてくれることがあった。恒夫は影でくすくす笑い出してはよく叱りつけられた。茂夫は一生懸命になってよく覚えた。その指先が非常に綺麗で器用だった。
「お前には碁の才がある。碁打になっても立派な者になれそうだ。」と祖父は云った。
「僕は碁打になんかなりません。」と茂夫は不服そうに答え返した。
すると祖父は上機嫌に笑いながら、自分の室へ帰っていった。
けれど祖母の前に出ると、茂夫は妙に竦んでしまった。どうしたんだい、と恒夫に尋ねられても、彼は答えることが出来なかった。
祖母はずっと寝たきりだった。そして恒夫から書物を読んで貰うのを楽しみにした。どんな書物でも構わなかった。書いてある事柄なんかどうでもよくて、ただ恒夫の声を聞くのが目的らしかった。
「僕が小さい時、」と恒夫は茂夫に云った、「御伽話やお化の話を沢山聞いたから、そのお返しなんだよ、屹度。」それから彼は声を低めた。「お父さんも死ぬ前に書物を読んで貰いたがったそうだから、お祖母さんももう長く生きないかも知れない。」
「大丈夫だよ、まだ元気じゃないか。」
茂夫は打消すようにそう答えたが、祖母の所へ行くと、顔を伏せて固くなってしまった。恒夫に代って書物を読んでやる時には、変に声が震えた。
「ありがとう。もうそれくらいにしておきましょう。」と祖母は云って、じっと茂夫の様子を見守った。「またこんど来た時に先を読んで下さいね。」
「ええ。」と茂夫は低く答えた。
「恒夫にもあなたみたいな兄弟があったら、どんなにか心強いことでしょう。……いつまでも親しくしてやって下さいよ。」
恒夫はひょいと顔を挙げた。
「じゃあ僕達は兄弟になっていいの。」
「え、あなた達が……。」
「お祖母さんがそう云えば、僕達はいつでも兄弟になって構わないんです。」
云ってしまってから恒夫は自ら喫驚した。祖母は頭を細かく震わせて、これまで見たこともない大きな眼をして、二人の顔をじっと見比べていた。
茂夫は今にも泣き出しそうな顔をして、不意に立上った。
「僕また来ます。」
恒夫も我知らず立上った。そして茂夫の後について祖母の室を出ながら、半ば口の中で囁いた。
「大丈夫だよ。……お祖母さんは耄碌してるから、分りゃしないよ。」
五月のはじめ、ひどい暴風雨が襲ってきた。真暗な低い空から、豆粒のような雹が降ってきて、それが止むと、雨と風とが次第に勢を増して、一晩中荒れ狂った。宵のうちに、電燈が二度も消えた。
その時から、祖母の容態が俄に悪くなった。医者が日に何度も来たし、看護婦もやって来た。
三日目の朝、恒夫はいつもの通り学校へ出かけようとすると、祖父の室へ呼びつけられた。祖父と母とが火鉢を挾んで坐っていた。火鉢の縁で長い煙管を、祖父がいつもより強い力ではたいているので、恒夫はただごとでないと感じた。そしておずおずと其処に坐ると、母はいきなり云い出した。
「恒夫さん、家へよく遊びに来る野田という人ね、あの人は小野田茂夫さんじゃありませんか。え……嘘を云わないで、はっきり御返事をなさい。」
恒夫は次第に頭を低く垂れて、唇をかみしめた。
「どうなんです。茂夫さんでしょう。」
「ええ。」と恒夫は答えた。
一寸沈黙が続いた。祖父がまた強く煙管をはたいた。
「それでは、もう何も云いませんから、今日学校が済んだら、すぐに茂夫さんを連れていらっしゃい。……よござんすか。」
「ええ。」
「すぐに連れてくるんだぞ。」と祖父が大きな声で怒鳴った。
恒夫は喫驚して、何にも尋ねることが出来ないで、風に吹き飛ばされる木の葉のようにして出て行った。
母が玄関まで送って来た。
「茂夫さん一人だけですよ。向うの家の人には何にも云ってはいけませんよ。」
恒夫には合点がゆかなかった。どうして分ったんだろう……茂夫を連れて来てどうするんだろう……何で祖父があんなに怒ってるんだろう……祖母の病気がひどいのかしら、それと茂夫と何の関係があるんだろう……。そこまで考えてきた時、恒夫は急に晴れ晴れとした所へ出たような気がした。僕と茂夫とを表向き立派に兄弟にしてくれるのかも知れない……そして茂夫の、高い広い額と、憂わしげな上目がちの眼と、綺麗な器用な指先とが、まざまざと眼の前に浮んできた。
恒夫は学校で待ってることが出来なかった。三時間目がすむと、こっそり逃げ出して豊山中学へ行った。そして例の小使室の横でだいぶ待たせられて、十二時になってから、茂夫に逢うことが出来た。
「大変なんだよ。」と恒夫は云った。「お祖父さんとお母さんとが、すぐに君を連れて来いと云うんだ。お祖母さんの病気がひどいんだ。」
茂夫は一寸顔色を変えた。それから変に絶望的に落付いてしまったらしかった。いつもの通り家に帰って着物に着変えて来ようとした。
「服のままで大丈夫だよ。もう君だってことが分ってるから。」
「だって、今日だけ服でゆくのは余り図々しいよ。」
何が図々しいのか恒夫には分らなかった。然し茂夫は聞き入れなかった。
「それから、君の家の人には知らせないようにって、お母さんが云ったんだけど……。」
極り悪そうに恒夫が呟くのを、茂夫は上から押っ被せた。
「そんなことは分ってるよ。」
二人はそのまま学校を出た。茂夫が家に帰って着物に着変えてくる間、恒夫は遠くの方で待っていた。
「今晩遅くなるかも知れない、友達と活動を見に行くんだから、と云って来たよ。」
茂夫は得意げにそう云ったが、すぐに、初めての日のように憂鬱な表情をした。恒夫の家に近づくに従って、その額から眼のあたりの曇りが益々濃くなっていった。恒夫も変に口が利けなかった。
何だか憚られるような気がして、そっと家の中にはいると、二人はそのまますぐに、祖母の病室の方へ連れてゆかれた。
次の室で、祖父と伯父とが碁を囲んでいた。それが何だか異様に感ぜられた。一寸まごついて立ってると、祖父は二人の様子をじろりと見やって、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]で奥の室を指し示した。別に怒ってるようでもなかったので、恒夫は少し安堵した。
祖母は、布団を二枚重ねた上に更に羽布団を敷いて、上に毛布と羽布団とをかけて、如何にも軽そうに寝ていた。二人の看護婦と母とがついていた。
恒夫と茂夫とがそっとはいって行って、入口の所に坐ると、誰も何とも云わないのに、閉じていた祖母の眼がぱっと開いた。硝子のような眼だった。それがじっと二人の方を見つめた。
母が相図をしたので、二人は祖母の枕頭へにじり寄っていった。祖母は唇を動かしたが、声は少しも出ないで、その代りに眼から涙が流れてきた、その時、茂夫が不意に畳につっ伏して、大きな声で泣き出した。
何もかもこんぐらかってしまった。看護婦の白い服があちこちへ動いた。
茂夫は室の外へ連れ出された。祖父が一寸はいって来てまた出て行った。恒夫はいつのまにか祖母の手を握っていた。筋張ったその手が間を置いてはびくりと震えて、やがて静かになっていった。祖母は眼をつぶって、そのままうとうとと眠ってゆくらしかった。一人の看護婦が小首を傾げて、その様子を見守っていたが、恒夫の手から祖母の手を離さして、毛布の中へそっと差入れてやった。気がついてみると、母の姿が見えなかった。
恒夫はじっと坐っていた。い
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