なすったんでしょう。それから咳が鎮まって、あなたがまだ側に居るのを御覧なすって、なぜ早く向うへ連れて行かないんだと、大きな声でお叱りなさるんです。それで私は、あなたを向うの室へ抱いてゆきましたが、それから四五時間して、お父さんはもう駄目でした。私があなたを抱いて連れて来た時は、もう何にもお分りなさらないようでした。」
「その時……その前の時、お父さんは僕の手を握って、僕の顔をじっと見ていらっしゃりゃしなかったんですか。」
「いいえ眼をつぶっていらしたんですよ、そのままお眠りなさるのかと思ったくらいですもの。」
 それでも恒夫はまだはっきり信じかねた。
 彼は父の死については、殆んど何も記憶していなかったが、ただ一つの場面だけが、妙に頭の底にこびりついていた。父の馬鹿に大きな堅い力強い手が、自分の手をしっかりと握りしめており、父の落ち凹んだ鋭い眼が、じっと自分の顔を見つめていた――確かに見つめていた。そしてその手と眼とが、自分を何処かへ――気味悪い処へ、ぐいぐい引張ってゆこうとするので、一生懸命に怺えて歯をくいしばっていた。するうちに凡てから解き放されてほっとした。それだけのことだったが、その一生懸命に怺える気持と解き放されてほっとする気持とは、ひいては父の死全体に対する気持でもあった。
 恒夫はその気持をじっと見つめた。胸の中がむずむずしてきて、母に向って飛びついてでもゆきたくなった。が母は、人のよい落付き払った微笑を顔に浮べて、ちらちらとゆらめく仏壇の灯火を見ていた。
 これが自分の本当の母かしら……ふとそんなことを思って、恒夫は眼をくるくるさした。
「お母さん、僕は何時頃に生れたんです。」
 母は遠い処を見るような眼付をした。
「朝の……五時頃でしたかね、なんでもまだ明るくならないうちでした。この子は夜明に生れたから運がいいと、そうお祖父さんは仰言ったんですよ。」
 そして弟は何時頃に生れたんだろう、と恒夫は考えた、どんな風に生れたんだろう……。それは丁度、鶏卵の黄身についてる小さな目、あれをじっと見るような感じだった。
 彼は不意に口笛を吹き出した。元来極めて下手で、流暢に鳴ったためしがなかったけれど、気持だけは朗かに吹き鳴らしてるつもりだった。そして、誰が何と云おうと、弟を探し出してやろう、弟に逢ってやろう、という決心を固めた。

 或る日、恒夫は大塚の店を探しあてた。
 二階と奥とが住居になっているらしい相当な店だった。店の奥には、堆く紙類がつみ重ねてあった。右手と前面には、重に小学校用のらしい文房具が、一面に並べてあった。左手には、各種の煙草やパイプが、硝子箱の中にはいっていた。そしてその真中に、若々しい髪の結い方をした中年の女が、膝の上に小布をのせて、縫い物か何かをしていた。眉と眼との間が少しつまった、揉上の長い、肥った女だった。
 恒夫はその前を何度も往き来した。はいって行って茂夫さんは……と尋ねるつもりだったが、それを為しかねてるうちに、益々気分にこだわりが出来てきた。それかといって、いつまで待ってもきりはなさそうだった。どうしていいか分らなくて、通りしなに店の奥をじっと覗き込んだ。とたんに中の女が顔を挙げてちらと彼の方を見た。彼は慌てて逃げ出した。こちらを向いた彼女の眼が、形も何も分らないただ真黒な輝きとなって、頭の中にはっきり残った。その時彼は初めて、その女を茂夫の母親だろうと思った。
 それから二三日して、恒夫はも一度其処へやって行った。やはり揉上の長い彼女が店に坐って、往来の方を見い見い、薄汚い婆さんと話をしていた。婆さんは店先に腰掛けていて、いつまでも帰りそうになかった。恒夫はがっかりして立去った。
 何も極りが悪いんじゃあない、家の人に気付かれちゃあつまらないからだ、と恒夫は自ら自分に云いながら、何故ともなく口惜しくて仕方なかった。そして唇をかみしめて考えてるうちに、学校へ尋ねてゆけば訳はないと思いついた。
 その土曜日に、彼は一時間早く学校を脱け出し、途中で少しぶらぶらして、十二時間際の時間をはかって、豊山中学にはいっていった。二学年の小野田茂夫に逢いたいと云うと、小使室の横に待たせられた。
 教室の方から一時に大勢の生徒が出て来て、がやがや弁舌りながら、恒夫の方をじいっと眺めていった。恒夫はぐるりと向きを変えて、何気ない風にぶらつき初めた。そして、応接室もないのかな……と考えている時、ふいに後ろの方が大きな声がした。
「小野田さんを連れて来ましたよ。」
 ぎくりとして振向くと、痩せた一人の生徒が足早に歩いてきて、数歩先の所に立止って、眉根を少し寄せながらこちらを窺った。高い広い額の下に、小さな眼が上目がちに光っていた。
 恒夫は無意識に帽子をちょいと脱いでお辞儀をした。
「僕……川村恒夫です。」
 相手に何の反応もないので、彼は云い直した。
「僕は……君に逢いたいと思って……こないだから……。」
「何か僕に用ですか。」と相手は気後れのした声で云った。
 恒夫はふいに、何というわけもなくかっとなった。
「だって……だって君は、僕と兄弟じゃないですか。君も僕のお父さんの子で、僕もやはりお父さんの子なんだから。え、君はまだ何にも知らないの。君のお母さんが僕のうちに来てたことがあって、お父さんとの間に君が出来たんだって……。そして君のお母さんは小野田という家に嫁入ったから、君は小野田と云うんだけれど、本当のお父さんは僕と同じお父さんで、川村というんだよ。だから……。」
「あ、その川村さんですか。」
 突然大人の調子でそう云われたので、恒夫は喫驚して、茫然と相手の顔を眺めた。
「外を歩きながら話しましょう。」
 それは全く落付払った大人の調子だった。恒夫は急に気が挫けて、首を垂れながら、茂夫の後に従って学校の門を出た。茂夫は一言も口を利かず、振返って見もせず、何かをじっと考え込んだ様子で、自家とは反対の方へ、音羽の通りを江戸川の方へ歩いていった。
 茂夫が別に驚いた様子も見せず、また喜ばしい様子も見せないで、思慮深そうに落付いてるのが、恒夫には不思議に思われた。そして、どうしたんだろう……と考えてるうちに、ふっと物悲しい気持に閉されて、涙ぐんでしまった。兄にでも縋りつくような気で尋ねかけた。
「君は前から知ってたの。」
「え。」と茂夫は答えてから十歩ばかりした。「そしてあなたはいつ知ったんです。」
「十日ばかり前、お父さんの法事の時、お祖母さんから初めて聞いたんだよ。それまで僕はちっとも知らなかった。お祖母さんから聞いて、喫驚して、それから急に君に逢いたくなって、何度も君の家の方へ行ってみたんだけど、店に人が坐っていたから……。あれ、君のお母さんなの。」
 茂夫は何とも答えなかった。だいぶ暫くたってから、独語のような調子で云った。
「僕は前から知ってたけれど、あなたに逢ってはいけないと、お母さんから止められてたんです。」
「え、何故だろう。」
「大きくなれば分ることですって。」
 恒夫は妙に冷りとした感じを受けた。自分が今迄漠然と気兼ねしていたこと、祖父母や母やまた茂夫の家の人達に、気付かれないようにしたいと思っていたこと、それがぼんやり分りかけてくるようだった。
「だって僕達だけなら構わないだろう。」
「そうかしら。」
 その調子が初めて恒夫の気に入った。彼は最初の元気を取直して、いろんなことを尋ねかけ、また自分の方からもいろんなことを話した。茂夫の家では、父が会社の書記をしていて、母が店の方をやっており、其他に十二歳の妹と九歳の弟とがいること、などを彼は聞き知った。そして自分の家では、祖父はいつも碁ばかりうっており、祖母はいつも病身であって、母が二人の女中を使って、何もかもやっていること、などを話してきかした。それから二人の年齢を比べてみると、茂夫の方が十一月余り年下だった。
「ねえ、僕の家に遊びに来ない。」と恒夫は云った。「黙ってさいいりゃ、誰にも分りっこないよ。」
 茂夫は急に眉根を曇らせた。
 二人はもう江戸川の岸を歩いていた。桜の枝に一杯蕾がついていて、所々には花を開いてるのもあった。薄濁りのゆるやかな流れは、物の影を凡て呑み込んでしまって、表面だけにきらきら日の光を受けていた。
 大曲まで行った時、茂夫は突然立止って、改まった調子で云い出した。
「僕はもう帰ります。」
 恒夫は驚いて、も少し歩こうと勧めてみたが、茂夫は川の面に眼を据えて、聞き入れそうな様子もなかった。
「此度は僕の方から、学校へ尋ねてゆくか、手紙をあげるかしますから、それまで待っていて下さい。あなたからいらしちゃいけません。」
 その時彼の顔から眼のあたりに、非常に憂鬱そうな曇りがかけた。見ていると、その曇りがふーっと拡っていって、彼の浅黒い顔全体を包み込んでしまうように思われた。恒夫は一人投り出される気がして、口を噤んで幾度も首肯いてみせた。
 それでも二人は伝通院前まで一緒に歩いていった。背中にさす春日がぽかぽか暖いわりに、地面を流れる空気が妙に薄ら寒かった。
「じゃ此度は屹度、君の方からやって来るか手紙をくれるかするね、屹度。」
「ええ屹度します。よく考えてから……。」
 茂夫は一つ丁寧にお辞儀をして、大塚行きの電車に飛び乗った。恒夫は上野の家まで歩いて帰った。
 何を考えることがあるんだろう……と恒夫は思った。然し茂夫の方が自分よりは、いろんなことを多く知っており、いろんなことを深く考えていて、ずっと豪いようにも思われた。憂鬱な顔をしたり大人びた言葉使いをしたりするのは、そのためかも知れなかった。……が、それは非常に淋しいことだった、心惹かれる淋しいことだった。
 家に帰ると、風邪をこじらして寝ついてる祖母の所に、丁度医者が見舞って来ていた。
「お祖母さん、もう桜の花が咲いていますよ。」と恒夫は不満そうに云った。
 火鉢の上の洗面器から立昇る湯気の向うから、祖母はしょぼしょぼした眼で見返した。その様子が、恒夫には何だか親しみ薄く感ぜられた。

 恒夫は茂夫に逢うのをしきりに待った。茂夫の広い高い額とその下の上目がちな小さな眼とが、頭の中にまざまざと残っていた。それを見つめていると、弟というよりも寧ろ兄という感じだった。
 でもやっぱり弟なんだ、陰気な弟なんだ……そう恒夫は自ら云って、胸の底が擽ったいような気持を覚えた。と共にまた、自分自身に張りが出来たような気もした。
 茂夫はなかなか、姿を見せなければ手紙も寄来さなかった。恒夫は苛ら苛らしてきた。そして丁度一週間目の土曜日に、彼は最後の望みをかけながら、わざわざ友達から一人後れて、学校の門を出て見廻すと、向うの電車停留場の柱の影に、書物を手にして読んでる風を装いながら、こちらを見守ってる少年があった。それが茂夫だった。
 二人は眼と眼でうなずき合って電車道を歩き出した。
「僕いろいろ考えてみたけれど、二人っきりなら構わないと思って、やって来たの。」
 その調子から様子まで、先日の茂夫とは全く異っていた。恒夫は一寸面喰ったが、そのはずみを受けて心が躍った。
「僕どんなに待ってたか知れないよ。」
「だって僕はいろんなこと考えたんだもの。君がやって来たのは、僕に恥をかかせるためじゃないかしら、というような気もしたし、お母さんに相談してみようか、と思ったり、何か大変悪いことをしてるのじゃないか、と思ってみたり……いろんなことを考えたよ。でも何でもないことなんだ。僕達は兄弟なんだから、兄弟として親しくしたって、ちっとも悪かないんだね。」
「悪いもんか。……君は変だな、どうしてそういろんなことを考えるの。悪い癖だよ。」
 茂夫の額は一寸曇りかかったが、すぐに前よりは一層晴々と、而も何だか狡猾そうに、輝いてきた。
「僕にはまだいろんな悪い癖があるそうだよ。」
「どんな癖が……。」
「どんなって、自分じゃ分らないが、お父さんがそう云うんだもの。」
「じゃあ、お父さんは君を愛していないんだね。」
「いや、愛してくれてるよ。」
「だって可笑しいなあ。」
「ちっとも可
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