つまでたっても何のことも起らなかった。あたりがしんとしてしまった。
恒夫はやがて立上って、室から出て行った。次の室では、祖父が碁盤をわきに片付けて、伯父と何やら話していた。恒夫は一寸お辞儀をして通りぬけた。
四畳半の勉強室の縁側に、母と茂夫とが坐っていた。恒夫はほっと大きく息をして近寄っていった。
「お祖母さんは……。」
「眠っていらしたようです。」
「また。」
母は急いで祖母の方へ行った。そのぽかんと開いた眼と口とが、不思議な感じで恒夫の頭に残った。
茂夫はまだ涙を一杯ためてる眼を、庭の地面に落したまま、黙って身動きもしなかった。
「お母さんが何か云ったの。」と恒夫は尋ねた。
「誰のことも悪く思っちゃいけないって……。」
「悪く思うって……だって君は誰のことも悪くなんか思ってやしないんだろう。」
茂夫は首肯いた。
「それでいいんじゃないか。……お母さんは少し人がよすぎるんだよ。」
日脚の西へ傾いてゆくのがはっきり見えるような、晴れ晴れとした静かな天気だった。すぐ向うに木瓜の真赤な花が、天鵞絨のように光っていた。
「僕が云った通りだろう、」と恒夫は暫くして云った。
茂夫は涙の乾いた眼を瞬いた。
「何が……。」
「何がって……何もかもさ。」
それきり二人は黙り込んで、日向にじっと蹲っていた。縁側がすっかり日蔭になってしまうと、恒夫は俄に空腹を覚えだした。
「腹が空いちゃった。」
「うん、僕も。」と茂夫が応じた。
恒夫は女中から餡パンを貰ってきた。そして二人で頬張っていると、表に人の来た気配《けはい》がして、出迎る人達の足音がした。二人は急いで餡パンを隠した。然し誰も其処へはやって来なかった。二人は首をひょいと縮こめて、眼と眼でにっこり笑み合って、また餡パンを頬張り初めた。
やって来たのは医者だった。医者は晩になるまで帰らなかった。家の中が何んだかざわざわして、それが重苦しい沈黙の中に浮出していた。そして六時半頃、恒夫と茂夫とが病室に呼ばれた時、祖母はもう意識を失っていた。痰のからまる急な呼吸に時々喘いで、その後はすーっと細長く息を引きながら、昏々と眠り続けていた。
二人はまた病室から出て、庭へ降りていった。ぼーっとした明るみを含んでいる空に、星が一つ見え初めていた。なま温い空気の中に、新緑の香が漂っていた。
「お父さんが死んだのも、こんな晩だったかも知れないよ。」と恒夫は云った。
茂夫は何んとも答えなかったが、不意に恒夫の手を握りしめた。
「君が云ったように、僕達にはまだ他に兄弟があるかも知れないね。」
「後でお祖母さんに聞いてみようか。」
「だってお祖母さんはもう……。」
そして二人は何んとなくぞっとして、首を縮こめた。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「中央公論」
1924(大正13)年4月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月22日作成
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