室へ馳けていった。そしてまだ耳に残ってる、弟の名前とその住所とを手帳に書き留めた。それから俄に分別くさい様子をして、祖母の所へ戻ってきた。
「お祖母さん、僕の弟に逢いたいでしょう。」
 答がないのでよく見ると、祖母は炬燵の上に顔を伏せて、眼から涙をこぼしていた。
 何が悲しいんだろう、と恒夫は一寸考えてみたが、分らなかった。それでも祖母の涙は、何だか神聖な触れてならないもののように感ぜられた。胸の奥でぴくりとして、途方にくれて、縁側に出てみた。西に傾きかけた日脚が、明るく一面に照っていた。空が青くて馬鹿に高かった。彼は其処に踊り跳ねたい気持をじっと押えて、弟の面影を想像し初めた。
 軽い咳の音がした。振向いて見ると、祖母は左の肩に手をやって揉んでいた。
「僕が叩いてあげましょう。」
 そして彼は元気よく祖母の後ろに坐って、祖母の痩せた頸筋と赤みがかった髪の毛とを、初めてのように珍らしく眺めながら、指先で眩《めまぐる》しいほど早くその肩を叩きだした。

 静かな晩だった。来客の用心に拵えられていた御馳走と、料理屋からみやげに持って来られた御馳走とに、恒夫はすっかり満腹して、額が軽く汗ばん
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