ほう……お父さんの子だけあって、なかなか飲めると見えるな。……が、もうよい。それくらいがよい所だ。」
 祖父から盃を取上げられたのをしおに、恒夫はふと立上って、次の室の仏壇の前へ行って、しきりに香を焚いた。香の煙の向うから、父の霊が笑ってるように思われた。そしてまた、弟ばかりでなしに、兄や姉や妹や、そんなのを沢山方々に生ましておいてくれてるかも知れない、などと馬鹿馬鹿しいことを考えて、自分で自分に面喰った気持になった。
「恒夫さん、何をしているんです、そんなに煙を立てて。」
 母の声に恒夫は我に返って、一寸考えてから答えた。
「僕はあまり香をあげたことがないから、これまでの分を一度に焚いてあげようと思って、それで……。」
 そんなことをすると火が危い、と母は云った。祖父は盃を下に置いて、小首を傾げた。が何よりも、祖母の眼に非常に悲しげな色の浮んだのが、強く恒夫の心に触れた。
 そして、その跡が後まで心に残ったので、恒夫は母と二人になっても、弟のことを尋ねかねた。ただ父の臨終の模様を悉しく尋ねた。
 然し母の話は、父の病気の経過のことや、一時無くなった食慾が甘酒のために出てきたことや、最期まで意識がわりにはっきりしていたことや、咳はひどかったが喀血は殆んどなかったことや、講談本を読んで貰うのが好きだったことや、臨終の苦悶がごく軽かったことなど、大抵恒夫が聞き知ってる平凡なことばかりだった。弟のことや弟の母親のことなどは、一言も出て来なかった。そして、何度聞いても常に彼の心を打つことが、ただ一つあった。
 父は息を引取る四五時間前に、恒夫を枕頭に連れて来さして、その小さな手を五分間あまりもじっと握っていた。
 その間、子供は顔をしかめながら、一生懸命に我慢してるらしかったそうである。
「僕は本当に泣き出しはしなかったの。」と恒夫は尋ねた。
「いいえ、顔をしかめてこらえていました。眉根に八の字を作って、口を曲げて、おかしな顔をしていましたが、それでも泣き出しはしませんでしたよ。お父さんは、手を布団から差出して、あなたの手を握って、じっと眼をつぶっていらしたが、五分ばかりして……いえもっと長かったかも知れません、ふいに咳込みなすって、咳の中から手真似で、あちらへ連れてゆけという様子をなさるんです。子供に病気がうつってはいけないと、いつもお云いなすっていたから、屹度それを心配
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