なすったんでしょう。それから咳が鎮まって、あなたがまだ側に居るのを御覧なすって、なぜ早く向うへ連れて行かないんだと、大きな声でお叱りなさるんです。それで私は、あなたを向うの室へ抱いてゆきましたが、それから四五時間して、お父さんはもう駄目でした。私があなたを抱いて連れて来た時は、もう何にもお分りなさらないようでした。」
「その時……その前の時、お父さんは僕の手を握って、僕の顔をじっと見ていらっしゃりゃしなかったんですか。」
「いいえ眼をつぶっていらしたんですよ、そのままお眠りなさるのかと思ったくらいですもの。」
それでも恒夫はまだはっきり信じかねた。
彼は父の死については、殆んど何も記憶していなかったが、ただ一つの場面だけが、妙に頭の底にこびりついていた。父の馬鹿に大きな堅い力強い手が、自分の手をしっかりと握りしめており、父の落ち凹んだ鋭い眼が、じっと自分の顔を見つめていた――確かに見つめていた。そしてその手と眼とが、自分を何処かへ――気味悪い処へ、ぐいぐい引張ってゆこうとするので、一生懸命に怺えて歯をくいしばっていた。するうちに凡てから解き放されてほっとした。それだけのことだったが、その一生懸命に怺える気持と解き放されてほっとする気持とは、ひいては父の死全体に対する気持でもあった。
恒夫はその気持をじっと見つめた。胸の中がむずむずしてきて、母に向って飛びついてでもゆきたくなった。が母は、人のよい落付き払った微笑を顔に浮べて、ちらちらとゆらめく仏壇の灯火を見ていた。
これが自分の本当の母かしら……ふとそんなことを思って、恒夫は眼をくるくるさした。
「お母さん、僕は何時頃に生れたんです。」
母は遠い処を見るような眼付をした。
「朝の……五時頃でしたかね、なんでもまだ明るくならないうちでした。この子は夜明に生れたから運がいいと、そうお祖父さんは仰言ったんですよ。」
そして弟は何時頃に生れたんだろう、と恒夫は考えた、どんな風に生れたんだろう……。それは丁度、鶏卵の黄身についてる小さな目、あれをじっと見るような感じだった。
彼は不意に口笛を吹き出した。元来極めて下手で、流暢に鳴ったためしがなかったけれど、気持だけは朗かに吹き鳴らしてるつもりだった。そして、誰が何と云おうと、弟を探し出してやろう、弟に逢ってやろう、という決心を固めた。
或る日、恒夫は大塚の店を
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