室へ馳けていった。そしてまだ耳に残ってる、弟の名前とその住所とを手帳に書き留めた。それから俄に分別くさい様子をして、祖母の所へ戻ってきた。
「お祖母さん、僕の弟に逢いたいでしょう。」
答がないのでよく見ると、祖母は炬燵の上に顔を伏せて、眼から涙をこぼしていた。
何が悲しいんだろう、と恒夫は一寸考えてみたが、分らなかった。それでも祖母の涙は、何だか神聖な触れてならないもののように感ぜられた。胸の奥でぴくりとして、途方にくれて、縁側に出てみた。西に傾きかけた日脚が、明るく一面に照っていた。空が青くて馬鹿に高かった。彼は其処に踊り跳ねたい気持をじっと押えて、弟の面影を想像し初めた。
軽い咳の音がした。振向いて見ると、祖母は左の肩に手をやって揉んでいた。
「僕が叩いてあげましょう。」
そして彼は元気よく祖母の後ろに坐って、祖母の痩せた頸筋と赤みがかった髪の毛とを、初めてのように珍らしく眺めながら、指先で眩《めまぐる》しいほど早くその肩を叩きだした。
静かな晩だった。来客の用心に拵えられていた御馳走と、料理屋からみやげに持って来られた御馳走とに、恒夫はすっかり満腹して、額が軽く汗ばんでくるような心地だった。
祖父はまだ餉台の前に端坐して、ちびりちびり酒を飲んでいた。母は長火鉢の銅壺で酒の燗をみていた。祖母は炬燵を持って来さして、それにあたりながら脇息によりかかっていた。そして皆の間には、法会のことや親戚の人達の噂など、いつもより多くの話題があった。電燈の光もいつもより明るかった。
それらの光景を、恒夫は不思議そうに眺め廻した。いつまでも膝をくずさずに坐り続けて、満足げに盃を挙げてる祖父の様子が、何だか馬鹿げているように思われた。眼付から言葉付まで、四方八方へ気兼ねをしてるらしい祖母の様子が、何となくはがゆく思われた。人のよい温和な笑みを浮べながら、押しても動きそうにないほどどっしりと構え込んでる母の様子が、変に愚かしく思われた。今この真中に、弟を不意に連れて来たら……などと考えると、妙に面白く可笑しくなってきた。
「恒夫、」と祖父が突然声をかけた、「何を一人で笑っている。ここへおいで、今日は特別に一杯飲ましてあげるから。」
恒夫は一寸躊躇したが、思い切って祖父の方へ寄っていって、盃三杯ばかり続けざまに飲んでやった。祖父は首を縮こめて、頓狂な顔付をした。
「ほ
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