「だって僕達だけなら構わないだろう。」
「そうかしら。」
その調子が初めて恒夫の気に入った。彼は最初の元気を取直して、いろんなことを尋ねかけ、また自分の方からもいろんなことを話した。茂夫の家では、父が会社の書記をしていて、母が店の方をやっており、其他に十二歳の妹と九歳の弟とがいること、などを彼は聞き知った。そして自分の家では、祖父はいつも碁ばかりうっており、祖母はいつも病身であって、母が二人の女中を使って、何もかもやっていること、などを話してきかした。それから二人の年齢を比べてみると、茂夫の方が十一月余り年下だった。
「ねえ、僕の家に遊びに来ない。」と恒夫は云った。「黙ってさいいりゃ、誰にも分りっこないよ。」
茂夫は急に眉根を曇らせた。
二人はもう江戸川の岸を歩いていた。桜の枝に一杯蕾がついていて、所々には花を開いてるのもあった。薄濁りのゆるやかな流れは、物の影を凡て呑み込んでしまって、表面だけにきらきら日の光を受けていた。
大曲まで行った時、茂夫は突然立止って、改まった調子で云い出した。
「僕はもう帰ります。」
恒夫は驚いて、も少し歩こうと勧めてみたが、茂夫は川の面に眼を据えて、聞き入れそうな様子もなかった。
「此度は僕の方から、学校へ尋ねてゆくか、手紙をあげるかしますから、それまで待っていて下さい。あなたからいらしちゃいけません。」
その時彼の顔から眼のあたりに、非常に憂鬱そうな曇りがかけた。見ていると、その曇りがふーっと拡っていって、彼の浅黒い顔全体を包み込んでしまうように思われた。恒夫は一人投り出される気がして、口を噤んで幾度も首肯いてみせた。
それでも二人は伝通院前まで一緒に歩いていった。背中にさす春日がぽかぽか暖いわりに、地面を流れる空気が妙に薄ら寒かった。
「じゃ此度は屹度、君の方からやって来るか手紙をくれるかするね、屹度。」
「ええ屹度します。よく考えてから……。」
茂夫は一つ丁寧にお辞儀をして、大塚行きの電車に飛び乗った。恒夫は上野の家まで歩いて帰った。
何を考えることがあるんだろう……と恒夫は思った。然し茂夫の方が自分よりは、いろんなことを多く知っており、いろんなことを深く考えていて、ずっと豪いようにも思われた。憂鬱な顔をしたり大人びた言葉使いをしたりするのは、そのためかも知れなかった。……が、それは非常に淋しいことだった、心
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