っそり萎びた感じがすることもあった。便通が甚しく不整だった。食慾も不整で、而も次第に減退してゆくようだった。飲酒慾だけは常に旺盛だった。物忘れが甚しく、時によると記憶全体がぼーっと陰った。全身にいつも倦怠感があった。注意力が散漫だった。これはいったいどうしたことか。肝臓にでも異変があるのかも知れないぞ。こんな肉体はもうたくさんだ。≫
 木山が呼鈴を押すのを見て、由美子は心配げに眉根を寄せた。
「またお酒でしょう。もうこれぐらいになすったら。お身体がわるいとか仰言ってたじゃありませんか。」
「なあに、大丈夫ですよ。日本酒だけなら、いくら飲んだって……。」
≪お前が要求するのは、酒、酒、ただ酒だけなのか。≫
「それでは、ほんとに愛情を育てていって下さるおつもりですね。」
「そうです。いま言った通りです。」
「それでも、わたしが塚本と同じ家に住むとなると、やはりおいやでしょう。」
「そりゃあいやですね。」
「では、どうすればよろしいの。」
「あなたの決心次第です。」
「わたしの決心はもうきまっていますの。あなたさえ許して下されば、家を出てゆきます。」
「家を出て、どこへ行くんです。」
「どこでも、あなたのおよろしいところへ。」
「よろしいところって、そう急には見つかりませんよ。」
「しばらくの間なら、宿屋住居だって、ホテル住居だって、構いませんわ。それぐらいのお金は、わたし持っていますから。」
「然し、その先が問題ですよ。」
 由美子はきっとなって、木山を見つめた。
「木山さん、わたしの眼をじっと見つめて下さい。そして、本当のことを言って下さい。」
 木山は彼女の眼を見つめて言った。
「僕はあなたを愛しています。」
「それだけ。」
「それ以上に何がありますか。」
「あなたの仰言るのは、言葉だけですわ。」
「では、どうしたらいいんです。」
 彼女は上目がちに眼を宙に据えて、内心に思いをこらしてるようだった。それは暴風の前兆のようだった。木山は炬燵布団に顔を伏せた。
≪俺がいま、彼女を抱きしめてやったら、彼女の心はすぐに和らぐだろう。然し、そのことがいったい何だ。俺自身、自分の肉体に愛想がつきてるじゃないか。彼女を抱いて寝ながら、俺は夜中によく汗をかいた。かりに、アルコールが体内にぱっと燃え立つ、そのせいだとしても、見っともなく、薄汚いじゃないか。汗の臭気ほど下等なものはない。彼女だって、汗をかくことがあるし、心臓をどきつかせる。なんてざまだ。いや、俺はもっとひどい。ふだんでさえ、ぶるぶる震える手で酒杯を持ち、頭の天辺から湯気を立て、動悸を早めてる。なんていやらしい肉体だ。お前のようなものは、もうたくさんだ。別れようじゃないか。さよならだ。お前ときっぱり訣別したら、俺はどんなにか清々するだろう。ざまあ見ろ。これでさようならだ。お前がいくら追っかけて来ようと、俺はもう振り向きもしないぞ。穢らわしい奴だ。お前ばかりか、由美子の肉体だって、八重子の肉体だって、穢らわしさに変りはない。由美子のは、腋臭めいた臭気がするし、八重子のは白髪染めの臭気がする。いくら香水をふりまいてもだめだ。ざまあ見ろ。さようならだ。≫
 由美子は木山の肩を捉えて揺った。
「木山さん、起きて下さい。そして、はっきり言って頂きましょう。」
 木山は黙って、彼女の顔を眺めた。
「あなたの御本心は、私にじっと塚本のところで辛棒せよと、そうなんでしょう。」
 木山はまだ黙っていた。
「そうしてるうちに、自然と別れることになると、それをお望みでしょう。」
 木山は返事をしなかった。
「よく分りましたわ。もう御心配はかけません。わたしはわたし自身で仕末をつけます。」
 木山はふいに叫んだ。
「勝手になさるがいいでしょう。」
 そして立ち上り、室の中をぐるぐる歩き廻った。暴風の前兆は彼の方にあった。頭がくらくらし、やたらに腹が立った。
「僕の気持ちは前に言った通りです。あなたはいつまでも後戻りばかりしている。別れようと僕に言わせたいんでしょう。そんならそれでよろしい。御随意になすって下さい。」
 ぐるぐる歩いて、それから炬燵に半身を入れて仰向きに寝そべった。
≪俺は何を言ってるんだ。肉体に訣別して、そしてなにかしら精神的な愛情を求めて、あっぷあっぷしてるんじゃないか。それがどうして言葉に言い現わせないのか。なぜ率直に彼女に言えないのか。≫
 由美子の手が伸びてきて、彼は引き起された。
「別れるなら別れると、はっきり致しましょう。ふてくされた真似は、わたしいやですわ。」
「僕もいやです。」
「そんなら、どうなんですの。」
「理屈も僕はいやです。同じことを繰り返すのもいやです。あなたと別れるのもいやです。何もかもいやです。僕は自分自身までいやになってるんです。腹を立てさせないで下さい。」
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