へ行きましょう。」
「お伴しますわ。」
 それだけで二人は外に出て、タクシーを拾った。
 春の家は、戦災から復興したばかりのわりに閑静な一廓にあった。山茶花科の常緑樹を主として植え込み、空池をあしらった庭、その一部を袖垣で仕切って、濡れ縁をめぐらしてある奥の室には、まだ炬燵が拵えてあった。二人には馴染みの深い室である。女中も顔馴染みだった。
「お誂えは……。」
「第一に酒、あとは何でもいいよ。」
 木山の眼になにか陰欝な影があった。塚本夫人は障子の腰硝子越しに外を眺めていた。木山は煙草を差出した。
「今日は、煙草はどうなんです。」
 塚本夫人は眼を向けた。
「いや、煙草のことですよ。たくさんお吸いになる時は、御機嫌のよい時で、あまりお吸いにならない時は、御機嫌のわるい時だと、僕が言ったでしょう。今日はどちらなんです。」
「冷淡な仰言りようね。そんなら、やけに吸いましょうか。あなたは、お酒をやけにおあがり下さい。」
 もうここでは塚本夫人ではなく、ただの由美子だった。コートを脱ぎすて、膝を少しく崩し加減に坐り、帯の刺繍がやたらにぴかぴか光っていた。その刺繍と同じように、彼女の視線が、木山の眼を刺戟した。
「なんにも、尋ねて下さいませんのね。」
「尋ねるって、いったい、なんのことなんです。」
「昨晩もちょっと申しましたでしょう、塚本のこと。」
「だって、あなたはまだ、なんにも話して下さらないし……。」
「それでは、お考え下さいましたの。」
「考えましたが、僕には、事情がよく分らないし……。」
「あなたにとって、不愉快な話だってことはわかっております。けれど、愛情がおありでしたら、心配して下すってもよろしいと思いますわ。」
「そりゃあ、心配していますよ。然し、いくら心配しても、どうにもならないし……。」
「成り行きに任せると仰言いますの。」
「いや、なんとか打開しなければなりませんがね……。」
「あなたのお気持ちを、今日は、はっきり聞かせて頂けませんか。」
「それは、前から言ってる通りですよ。」
 陰欝な気分が次第に苛ら立ってくるのを、木山はむりに抑えた。そして酒を飲んだ。由美子も口を噤んで、猪口を手にした。
 もともと、ちょっとした火遊びみたいな軽い気持だったのが、次第に深みへはまり込んだのである。肉体の関係がついたのがいけなかった、青年同志のようにぱっと燃え立つのでもなく、老人同志のように心底から寄り添うのでもなく、ただじりじりと互に喰い込んでいった。そこへ、別居していた塚本が、愛人と別れ、自家へ帰って来るという事態が持ち上った。素人のくせに手を出した漁業に大失敗をして、危く倒産は免れたが、家産の大整理をしなければならなくなったものらしい。帰って来れば、自然、由美子と同棲することになる。由美子と木山との仲は、塚本もうすうす察知しているだろうが、元来女というものを軽蔑しきってる彼のこととて、どういう家庭生活になるか分らないのである。それが怖い、と由美子は言った。塚本が引越してくる期日は、まだはっきりしなかったが、近いうちにとの通告があった。その通告は、由美子に覚悟を強要するものだったのである。
 彼女は眼を見据えて木山に言った。
「あなたに愛情があるなら、家を出てしまえと、なぜ仰言って下さいませんか。わたしは、その一言が、あなたから聞きたかった。」
「それは、愛情とは別問題ですよ。家を出てから、どうするつもりですか。」
「わたし一人なら、どうにか暮してゆけるでしょう。あなたに御迷惑はかけません。奥さまに御迷惑もかけません。」
「金銭のことを言ってるんじゃありませんよ。人間としての生活のことです。」
「体面のことを仰言るんでしょう。世間の体面と、愛情と、どちらが貴いんでしょうか。」
「そんなこと、今の問題じゃありません。僕ははっきり言っておきますが、あなたを愛しております。だから、あなたの正しい生き方のことを考えてるんです。」
「正しい生き方……。では、塚本と一緒に暮せと仰言るんですね。別れようと仰言るんですね。」
「違いますよ。愛情は育てましょう。然し、その育て方ですが……。」
 彼は口を噤んで、眉をしかめた。窮地に追い込まれた気がしたのである。そして卓上の一点に眼を据え、酒を飲みながら考え込んだ。
≪木山は別なことに思いを走らせるのである。近頃彼は身体の違和を自覚しだしていた。殆んど毎夜のように寝汗をかいた。睡眠は浅く、熟睡の気持を味ったことがなかった。そのくせ、昼間でも、物を考えてるうちに、うとうとすることがあった。手指や足指の先に、軽い麻痺を感じた。脈搏が、時に速くなり、時に緩くなった。顱頂部にしばしば汗をかいた。眼がくらんでくる気がして、足がふらつくことがあった。顔の肉や掌の肉に、厚ぼったく脹れた感じがすることもあれば、げ
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