然し、真意は、僕も君に同感だよ。破れ服で世界をのし歩いたっていいさ。少しも恥かしいことはない。ただ、日本の文化は、経済は、産業は、破れ服のままではいけない。仕立て直さなくちゃいかんじゃないか。」
「ワイシャツは綺麗なのを着ることだ。」
木山はそう応じて、それから、酔っ払ってるらしく口ずさんだ。
「年をへし、糸の乱れの苦しさに、衣のソデはほころびにけり……。」
聞いてた人々は唖然とした。擦り切れた袖口についての現実的な憤慨から、いきなり、古い戦記物語の和歌に入り込んだのである。二つ三つ、拍手が起った。それをきっかけに席を立つ者もあった。
崎田夫人も立ち上った。
「酔っ払いは、もう相手にしないことにきめました。」
「ええどうぞ。」
木山はなにか嬉しそうな笑顔をして、また酒杯を取り上げた。毛の薄くなってる顱頂部に汗がにじんで、それをハンケチでくるくる拭いた。それから黙りこんで、彼は雑談の圏外に出た。
林が彼のところへ立って来て、肩を叩いた。
「ちょっと頼みたいことがあるんだがね。君は東京の新聞社にも知人が多いだろうから、少し力をかしてくれよ。小坂澄子、新進ピアニストだが、来週、晴れの音楽会に出ることになってる。あれが、僕の姪に当るものだから……。」
「あ、切符か、何枚でも引き受けるよ。」
「いや、切符のことじゃないんだ。なにしろ、初めての晴れの音楽会に出ることだから、好評を得さしてやりたいんだ。どの新聞社でもいいから、音楽批評を担当してる記者に、君から、その、適当に口を利いといてくれないかね。」
「ああそうか。そんなことなら、あいつがいい。いつもでたらめな音楽批評ばかりやってる。そら、君も知ってるじゃないか。ええと、そら、あの男さ。」
木山は額をとんとん叩いた。
「君も知ってるじゃないか。あの若い男さ。ええと、そら、いつもぱちぱち目ばたきばかりしてる、色の白い、髪の毛を長く伸した……。」
「ふーむ、誰だい。」
「君も知ってるじゃないか。あの男……何とかいった……おかしいなあ、喉元まで出かかってるんだが……。」
木山はまた額を叩き、立ち上って、小首を傾げながら歩きだした。林は苦笑したままそこに残された。
木山が控室の方にはいりかけると、そこでお茶を飲んでいた数人の中から、塚本夫人がつと立って来て、彼の腕を捉えた。そして囁いた。
「明日、午後、事務所の方へ伺い
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