ます。待っていて下さいね。」
 木山は頷いた。
「だいじな用ですの。きっとですね。」
「今晩、これからでもいいですよ。」
「いいえ、明日にしましょう。ゆっくりお話したいから。」
 彼女の眼は刺すように光っていた。
「いったい、どんなことですか。」
「塚本のこと。お話しましたでしょう。いよいよ、わたくしの方へ帰って来ることになりそうですの。ゆっくり御相談したいから、考えておいて下さいね。」
 木山は一歩退って、彼女の顔をじっと見つめた。
「明日、二時から三時までの間に伺います。きっと、待っていて下さいね。」
「承知しました。」
 木山は冷かに言い捨てて、さっきの席に戻って行った。酒杯を持つ手先がかすかに震えていた。
 塚本夫人も、木山と同時に足を返して、先程の仲間に加わった。隣りに崎田夫人がいた。その方を塚本夫人は顧みて、にこと笑った。
「木山さん、この頃、どうかなすってますわね。ひどく怒りっぽいし、先程は、あんな失礼なことを言ったりして……。わたくし、ちょっとたしなめてやりましたわ。いい気味だった。」
 然し、塚本夫人のその態度は、少し大胆すぎた。木山と彼女との間になにか情愛関係がありそうだとは、親しい仲間の認めるところだったのである。そして木山の近頃の怒りの虫を、そのことと結びつけて考える者もあった。見ようによっては、最近、塚本夫人も落着きを失いかけてるらしい点があった。
 その晩、塚本夫人は真先に帰っていった連中のうちの一人だった。そして木山は、最後まで居残って酒杯を手にしてる連中のうちの一人だった。

 木山の事務所は、銀座裏の小さな建物の三階にあった。事務所といっても、彼が主事嘱託という名義で関係してる近県の小新聞の、東京連絡所を兼ねたもので、所員には、老若の男二人と、女が一人いた。木山は週に二日か三日、新聞社の方へ出張するので、いろいろと多忙だった。多忙なのを自慢にしてるようでもあった。
 然し近来、なにかしら大儀らしい疲労の色が彼に見えてきた。それが時として、所謂怒りの虫となって爆発することもあり、或いは漠然として瞑想のうちに沈潜することもあった。
 約束通り、塚本夫人が事務所へ訪れて来た時、木山は仕事を放り出してぼんやり考え込んでいたが、ふいに眼が覚めたように立ち上った。
「急ぎますか。」
「え。」
 夫人は聞き返した。
「時間がおありでしたら、春の家
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