上衣の袖が擦り切れていたって、構うものか。僕なんか、擦り切れてるどころか、破けてると言ってもいい。それだって平気さ。ちっとも恥かしがることはない。」
「勿論、そうだよ。」隣席の者が応じた。
「恥かしがることはない。恥かしいと思うのは、インフェリオリティー・コンプレックスだ。もっとも、御婦人たちは、ここにいる御婦人たちは、着物の袖口が擦り切れてなんかいない。然し、吾々男子は、擦り切れた服で堂々とのし歩いても、一向に構わんじゃないか。」
初めは、なんのことか、あたりの者も解しかねたが、やがて、不穏な空気がふっと漂ってきた。
川村が先刻、挨拶の中で、上衣の袖口のことを洩らしたのである。アメリカ旅行中、赤毛布式な失敗はあまりしなかったが、或る招待の宴席に臨んだ時、自分の上衣の袖口がだいぶ擦り切れて見っともなくなってるのに気付き、それからはへんに、内心恥かしい思いをした、というのである。川村は富有な実業家で、いつも、その晩も、きりっとした身なりをしていたし、アメリカ旅行中に果して、袖口の擦り切れた上衣を着ていたかどうかは、疑問だった。それになお、彼の話の調子では、上衣の袖口のことは一種の比喩で、日本の文化や経済などの一般情勢を暗示してるのだと、感ぜられないこともなかった。それを今、上衣の袖口そのものだけを持ち出して、木山は憤慨してるのである。
「なにが恥かしいことがあるものか。僕だったら、この擦り切れた背広で、アメリカだろうとイギリスだろうとフランスだろうと、堂々とのし歩いてやる。それぐらいの気慨は持ちたいものだ。」
近くにいた洋装の崎田夫人が、まずいことを言った。
「木山さんのお洋服、御自慢なさるほどいたんでいないではございませんか。もしかすると、わたくしのシュミーズの方が、もっと擦り切れてるかも知れませんわ。」
木山は眉をひそめた。
「擦り切れたシュミーズなんか、打っちゃってしまうんですね。もしあなたの仰言るのが本当なら……ですよ。僕は、ワイシャツはいつも綺麗なのを着る。上衣は破けていたって構わない。御婦人がたは反対だと見えますね。」
「まあ、ずいぶん失礼なことを仰言るわ。もっとも、酒に酔っていらっしゃいますからねえ、ほほほ。」
崎田夫人は真赤になり、強いて皮肉な笑いかたをした。
あちらの席から、川村が声をかけた。
「木山君、僕の話が君の不興を買ったようだね。
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