老人と一緒にそこを通ったことを思い出した。
「あの碑はどうなったかしら。」
震災のため廃墟のようになった構内を見廻しながら、心覚えのあたりまでやって来ると朦ろな月の光に、破損が却って風致をましてる工科大学の古めかしいシャトーを背景にして、これはまた湍々しい冬青樹の若葉の下影に、例の碑がぬっとつっ立っていた。
「ほほう。」
私はその側に歩み寄って、露に冷い饅頭笠の石の上を、やさしく撫でてやったのである。
愉快だった。
正面前から電車に乗るのを止して、すぐに老人の家を訪れた。
「あの大学の石の碑は、地震にいたみもしないで、元の通り立っていますよ。」
A老人はきょとんとした顔をした。がやがて、それが何のことだか判ると、エヘンと一つ咳払いをしたのである。
「それはそうなくちゃならん。」
それ以来、私は碑の前を通る時にはいつも、意識的にまた無意識的にも、その方へ一瞥を投げるのである。そして、遠目には殆どそれとも判らぬ仏の立像を見ながら、裏面の文句を口の中で繰返す。
「キャカラバア……地水火風空……。」
おのずから神韻縹緲として、胸廓の広きを覚ゆるのである。
底本:「豊島与志
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