男ぎらい
豊島与志雄

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 男ぎらいと、ひとは私のことを言うけれど、そうときまったわけのものではありません。男のひとは、だいたいいいえ皆が皆、厭らしく穢ならしく、だから私は嫌いです。厭らしくも穢ならしくもなく、ほんとにすっきりしたひとがあったら、私だって好きにならないとも限りません。釈迦牟尼とかマホメットとかのことは知らないが、キリストなら、私は好きです。ミッションの学校にしばらくいたことがあるからそう言うのではありません。キリストはすっきりしています。悲しいほどすっきりしています。つまり、男くささがないのです。
 男くささ、それがどういうものか、私はしばしば考えたけれど、未だにはっきりしません。臭いだけのことではありません。体臭だけのことではありません。なにかこう、脂ぎったもの、不潔なもの、どぎついもの、むかむかするもの、そういうもの全体のようです。
 姐さん――ここではお上さんですが――姐さんが一人でいる時は、その室の空気も清らかです。香水や化粧品の匂いは別として、ぜんたいの空気が清らかです。ところが、井上さんがやって来ると、空気が濁ってしまいます。殊に、泊ってでもゆく時には、胸わるくなるような空気になります。姐さんは寝床のあげおろしを自分でしますから、私は助かるのですが、あとで私がお掃除をする時でさえ、室の空気はいやらしい。そのもとはみんな、井上さんの男くささにあるのです。
 井上さんは寝る時でも、足を洗ったことがありません。靴下をぬいで、そのまま寝床にはいります。靴下が新らしい時はよいけれど、少し汚れてきて、おまけに雨の日などは、湿っぽくむれて、くさい臭いがしています。その臭いは、足にもうつってるに違いありません。水虫が出来たようだと、指先でかいたことがあります。その足のまま寝床にはいってしまうのです。他国の人はどうか知りませんけれど、日本人は、寝る時ぐらいは足を洗ったらどんなものでしょう。靴の革の臭い、靴下のむれた臭い、不潔ではありませんか。
 男のひとの皮膚も、だいたい革に似ています。だから、絹の手袋よりも、毛糸の手袋よりも革の手袋が似合うのです。動物的です。毛が多すぎます。髭、胸も、脛も、あちこちに毛がたくさんあります。井上さんときたら、鼻毛が濃く、耳の穴にまで毛が生えています。それに気がついてから私は、ひと頃、うちの店や電車の中などで、男の耳の穴をそっと盗み見たことがあります。もじゃもじゃ毛のある人が多いのには、びっくりしました。
 毛が多くて、革に似た皮膚をしていて、その上、臭がくさいのです。酔った人の息となったら、一層たまりません。いつぞや、井上さんが酔っぱらって、姐さんに甘えて言った言葉を、私は忘れられません。
「酒を飲んだ時の君の息は、はっかの香りがするよ。」
 姐さんはきれい好きだし、すっきりしてるから、酒を飲めば、息に薄荷の香りがするかも知れません。けれど井上さんは、反対に、息がくさく穢くなるばかりです。男のひとは皆そうです。熟柿のような息と言いますが、熟柿がどんな臭いか私は知らないけれど、もっともっとひどい臭いです。そのくさい臭は、酒のせいばかりではありますまい。体内にそうしたものがあるからです。体内にむかむかするようなものがあるからです。
 そのくさい臭と一緒に、同じ布団の中にはいったら、どんなことになるのでしょう。思っただけでもぞっとします。胸わるくなり、気が遠くなるかも知れません。姐さんが平気でいるのが、私にはふしぎでたまりません。井上さんのお世話になっているから、我慢しているのでしょうか。
 ある時、寒い晩でしたが、下の室に炬燵をこさえて、皆でごろ寝をしたことがあります。井上さんが大勢のお客さんを連れて来て、二階は散らかりぱなし、お島さんは帰ってしまい、後片付けは明日にしようということになったのです。特別のジンが持ち出され、私も水にうすめて飲み、息に薄荷の香りがしてきました。
 井上さんと姐さんとの間には、酔ってくると、しばしば同じ話が繰り返されます。姐さんの方では、東京都のこんな出はずれの河っぷちより、旧市内の方へ帰りたいというのです。井上さんもそれは同意しますが、適当な家がなかなか見つからないそうです。井上さんの方では、髪にポマードをぬりたくってる男について、姐さんに嫌味を言います。土地の呉服屋の若主人で、衣類反物のことについてはこちらがお客さまですが、うちの喫茶店ではあちらがお客さまです。二階の室と特別な料理や飲み物は、井上さんの連れの人だけに限ったもので、ほかの人はみんな下の喫茶だけです。けれど、喫茶のお客の中にもちょっと区別があって、お酒に摘み物ぐらいは出すこともあります。このお酒について、殊に洋酒について、井上さんは監督がたいへん厳重です。ポマード男、倉光さんに酒を飲ませすぎはしないかと、じわじわ嫌味を言うのです。やきもちをやいてるのか、からかってるのか、どちらとも分らない調子です。姐さんの方でも、弁解するのやらしないのやら分らない、あいまいな調子です。聞いていて、じれったくなります。どちらとも、もっとはっきりしたらよさそうなものなのに。ほかに話すこともないから、そんなことを酒の肴にしてるのでしょうか。私はジンをなめながら、息に薄荷の香りがますます強くなります。
 そうして、皆酔って炬燵にごろ寝をしました。
 ふと、私は眼を覚しました。胸がむかつき、息苦しくて、叫びました。
「男くさい、男くさい。」
 実際に叫んだかどうか分りません、叫んだつもりでした。同時に、飛び起きました。
 まったく、男くさかったのです。井上さんが私の方へ寄ってきて、私の方を向いて、鼾まじりの息をしています。その息が、私の頭や顔にかかったに違いありません。温い、なまぐさい、すっぱいような息です。口を少しあけて、煙草のやににそまった黒い歯を出し、その奥の深い喉から、音を立ててくさい息が出て来ます。酒の臭いだけではありません。
「男くさい。」
 息をつめて坐り直しました。
「どうしたのよ、寝呆けているわね。」
 姐さんが私の方を見て、そしてすぐ向うへ寝返りうちました。
 その背中の方へ、取り縋るようにして、私ははいってゆきました。大きく息をしました。へんに眠れません。室の中ぜんたいが、厭らしく穢ならしく思われます。土間の方で、かさかさ音がします。黒犬のクマが体をかいてるのです。しっ、しっ、叱っても、まだかさかさやっています。だにか皮膚病かでしょう。あんな犬をなんで飼ってるのか、姐さんの気が知れません。ただ真黒な小さな普通の犬で、どこからか迷いこんで来たのです。泥坊よけにもなりはしないでしょう。
 そのつまらないクマを、ポマードの倉光さんが特別に可愛がるから、おかしくなります。だいたいあのポマードがおかしいのです。長い髪をバックにして、ポマードをこてこてぬりたて、靴先よりももっと光らしています。女の日本髪に鬢附油を用いることはありますが、それだって、あんなにぴかぴか光らしはしません。油が浮いて流れるように光っていて、どうかすると白く埃がくっついてることもあります。却って不潔です。その上ポマードの臭いと犬の臭いと一緒になると、とてもいやなものになります。倉光さんはいつでも、クマを撫でさすり膝に抱きあげることさえあります。男のひとはいったい、犬の臭いをどうして厭がらないのでしょう。厭がらないばかりか、むしろ好きなようです。
 犬が好き、そしてポマードが好き。両方の臭いを一緒にすると、それは助平根性の臭いです。あ、とんだことを口走ったが、こうなったらもう後へは引けません。無茶苦茶に、何でも言ってしまいましょう。
 倉光さんもそうですし、井上さんもそうですが、物に腰掛ける時、両の膝をひろく両側へひろげます。男のひとは皆そうします。電車の中などを眺めても、膝を両方にひろげて、自分の股の間はすいているのに、隣りの人とは股で押し合っています。なぜあんなことをするのでしょう。腰の骨組のせいではありますまい。股の間に男のあれがあるので、それが邪魔になるのでしょうか。
 そのことについて、私はおかしな話を聞きました。井上さんが連れてきたお客同士の話です。男はいつも睾丸がさっぱりしていなければいけない。ということに二人は同意した上で、一人は言いました。
「そこで、僕は、毎朝起きると、睾丸を水で洗うことにしている。さっぱりしたものだ。」
 も一人は言いました。
「僕は、いつも、猿股も何もかも脱ぎすて、素っ裸になって寝間着に着かえ、そして寝ることにしている。さっぱりしたものだ。」
 聞いていて私は極りわるいよりもむしろ、呆れました。毎朝水で洗うことも、パンツ一つない素っ裸で寝ることも、どちらもへんなものです。
 けれども、それはそれだけの理由があるに違いありません。つまり、そんなことをしなければ、股倉がさっぱりしないのでしょう。そんなことをしなければならないほど、股倉が、……なんと言ったらよいか、まあ、陰湿なのでしょう。そうです。男の股倉はみんな陰湿なのです。だから、いつも両股をひろげて、風通しをよくしたいのです。両股を女のようにつぼめて、風通しを悪くすると、ますます陰湿になって気持ちがわるいのです。
 女の方が不潔だなんて、どうして言えますか、女はいつもさっぱりしたものです。男はさっぱりしていないのです。股倉が陰湿なんです。不潔ではありませんか。陰湿な不潔さ、そこからも男くさい臭いが発散してきます。
 裸になると、男より女の方が不恰好だと言われています。それはそうかも知れません。胴のわりに足が短く、尻が大きくて、恰好はよくないかも知れません。けれどもそれを女は衣裳で補っております。衣裳は単に、寒さ暑さを防ぐだけのものではなく、姿を美しくするためのものでもありましょう。姿を美しくするためのその衣裳を、男のひとは何と思ってるのか、すぐに脱ぎたがり、肌を出したがります。肌を出してもよいのは、むしろ女の方ではありますまいか。女の肌はなめらかでこまかく、革のような男の肌よりどんなに美しいか分りません。それに、男のひとはいったい不精です。耳垢をため、鼻糞をため、肱や膝はざらざらです。人前でも平気で、小指で耳垢をほじくったり、人差指で鼻糞をほじくったりします。倉光さんにせよ、井上さんにせよ、クロを撫でまわし、鼻糞をほじくったその穢ない手で、お菓子をつまんで食べます。女は、私だって姐さんだって、そんなことは決して致しません。
 恥を知るがよい。そして廉恥心を持つがよい。
 姐さんが、絽刺したハンドバックを、赤珊瑚の帯留を、私の前に並べて、これは倉光さんからのものだと言いました。あのひとの店にある品物ではなく、東京の町に出たついでに買って来たもので、ふだん、コーヒーや酒でいろいろお世話になっている。その礼心だとのことです。私はびっくりして、尋ねました。
「あたしにですって。お姐さんには?」
 姐さんは切れの長い眼で私をきっと見て、それから突然ほほほと笑いました。
「あたしなんか、どうだっていいじゃないの。」
 姐さんはもと芸者をしていたことがあるので、ひとから物を貰うのも貰わないのも、どうだっていいでしょう。けれど、私としては倉光さんからそのような物を貰うことが、なんだかへんでした。姐さんを差し置いて、という気もするし、あとが怖い、という気もするし、それからまた、ハンドバックにも帯留にも、犬や鼻糞の臭いがうつってるような気もしました。ちっとも有難くないばかりか、厄介にも思われました。
 次に倉光さんに逢った時にちょっとお礼は言いましたが、つんと澄ましていてやりました。ぴかぴか光ってるポマードの髪が、憎らしくさえなりました。
「美枝ちゃんの気に入るかどうか分らなかったが、まあ我慢してくれよ。こんどまた、な
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