にか見立ててくるよ。」
 倉光さんは親しげな口を利き、どんな物が好きかなどと尋ねたりして、ウイスキーをいつもよりよけい飲みました。
 物乞いじゃあるまいし、貰ってやるものか、と私は思い、なにか仕返しをしてやろうかとさえ考えました。
 ところが、倉光さんばかりでなく、井上さんまで、私に物を持って来てくれました。模様のあるハンカチとか草履とかいうようなものです。くさい息がかかってるようでいやでした。私がもじもじしていると、井上さんは私にとりあわず、ちょっぴり髭のある肥った顔を、姐さんの方へ向けて、ほかの話を始めるのです。
 私はみんなからばかにされてるようでもあり、そっと目をつけられてるようでもあります。男ってどうしてこんなに厚かましく図々しいのでしょう。
 この気持ち、姐さんには分らないようです。私に代って姐さんが、倉光さんにも井上さんにもお礼を言ってくれます。
 町のお祭りの晩には、特別に酒がたくさん用意されて、誰にでも飲ませることになりました。表には、提灯と桃の花が吊してあります。忙しくて、私はだいぶ疲れました。井上さんが来ていて、姐さんは二階にあがってることが多いので、店の方は私とお島さんと二人きりです。
 もうだいぶ遅くなって、五六人の男がはいって来ました。ずいぶん酔ってるようでした。
「倉光君は来ていないか。」
「いらっしゃいませんよ。」とお島さんが応対しています。
 なんだかごたごたして、その人たちは卓子に就き、安物のウイスキーを飲みはじめました。
「倉光君はどうした。隠してるんじゃあるまいね。」
 お島さんはもう相手になりません。
「おばさんじゃ信用ならん。美枝ちゃんはどこへ行った。」
 おーい、美枝ちゃん、と呼ばれて、私は隠れてるわけにゆかず、出て行きますと、顔を知ってる人たちです。
「倉光君は来ていないのかい。」
「ほんとに来ていないんだね。」
「どこかに隠れてるんじゃあるまいね。」
 一度に問いつめられて、私は困りました。
「美枝ちゃんがそう言うなら、ほんとだろう。も少し待ってみるか。」
 そしてウイスキーをつがせられてるうちに、誰かが、ダンスをしようと言い出しました。私はダンスは知りませんし、男のひとなんかと踊りたくもありません。しかしつかまってしまいました。お島さんがレコードをかけます。何のレコードだって構やしません。卓子を少し片寄せて、そこの狭い土間で、ただ動きまわるだけです。私をまん中にして、ぐるぐる廻ります。
「樽御輿だ。ワッショイ、ワッショイ。」
「なに、姫御輿だ。ワッショイ、ワッショイ。」
 私は姫御輿にされ、皆から取り巻かれ、肩や腰に手をかけられぐるぐる廻らされます。その男たちの、ねばねばした手が私の手に触れ、くさい息が私の顔にかかります。厭らしくて穢ならしくて、私はけんめいに逆らいますが、放してくれません。悲鳴をあげ、涙ぐんで、手当り次第に引っぱたきました。
「どうした。あんまり騒ぐんじゃねえよ。」
 和服を着流しの中尾さんです。井上さんと奥で密談をして、帰りかけたところです。時々、物資の取引きかなんかのことでしょうが、井上さんと密談をすることがあります。土地の顔役だそうで、頭の禿げた老人ですが、力が強そうです。
「あ、中尾さんですか。」
 一同は静まりました。私は解放されました。
「若い娘をいじめたりして、みっともねえぞ。お祭りに酒が足りなかったらしいね。俺が奢ってやろう。」
 頭をかいてお時儀をする者もありました。
「いえね、美枝ちゃんが倉光君をどこかに隠したというんで、糺明してたんです。」
「ばか言え。」
 卓子を並べなおして、それぞれ席に就きました。ふしぎなことに井上さんまでが、中尾さんを送り出すところではありましたが、その席に腰を下してしまったのです。井上さんが土地の人と一緒に飲むなんてことは、これまでになかったのです。
「倉光君は、今日はまだ一度も来ないのかい。」
 そんなことを、井上さんまでが、お島さんに尋ねています。
 料理はなんにもいりません。摘み物だけで、日本酒のお燗をするだけです。姐さんも出て来たので、私は奥に引っこんでいました。顔を洗い手を洗いました。男くさくって、むかむかしました。中尾さんはもうお爺さんですが、それでもなんだかいやです。少しく猪首で、肉の厚ぼったいその頸筋が、陽やけしてざらざらしてるくせに、へんに脂っこい感じです。
 しばらくして、若い男たちは帰ってゆきましたが、中尾さんと井上さんは居残って、特別のウイスキーをビールにわって、飲みました。ひそひそと話しあったり、ふいに高笑いをしたりします。密談のしめくくりをしてるのでしょうか。それとも、猥談でもはじめてるのでしょうか。姐さんまで一緒になって笑っています。もうつくづく厭になりました。
 そのあと、中尾さんが帰ってゆき、お島さんもちょっと片付けものをし、店をしめて帰ってゆきました時、二階への梯子段の上り口のところで、井上さんは突然、よろけるような風をして、私の背にもたれかかりました。ほんとによろけたのではありません。背中に押っ被さるようにして、両手を肩から胸へまわし、抱きしめてしまいました。熱い息が、頬から襟元へかかります。私は呼吸もとまる思いで、立っておられず、へたへたとくずおれて、そこの板敷につっ伏してしまいました。井上さんは何とも言わず、よたよたと梯子段を昇ってゆきました。
 私は起き上って、体中、着物をはたはたとはたきました。それからまた、顔から首まで洗い、手を洗い、足も洗いました。胸がむかついてき、残ってるウイスキーを、やけに飲んでやりました。どこもここも、男くさくって、穢ならしいのです。そればかりでなく、妙に恐ろしくさえなりました。どんなことが起るか分りません。なにか真黒な怪しいものが、いつ襲ってくるか分りません。えたいの知れない厭らしい恐怖です。
 私はウイスキーを飲んでやりました。何の役にも立たないかも知れないが、クマを檻から出して土間に放ってやりました。クマは土間を嗅ぎまわって、また檻の中にはいってゆきます。私はそれを蹴りつけてやりました。それから布団を引きずり出し、着物のまま頭から被りました。
 表に二三人の足音がします。足音はうちの前で止りました。戸によりかかって、とんとん叩きました。
「もう寝たんですか。」
 酔っぱらってると見えて、大きな声です。
「もう寝たんですか。」
 とんとんと叩きます。
「美枝ちゃん、美枝ちゃん、ちょっと開けてくれ。僕だよ。」
 こんどのは、倉光さんの声です。大きく戸を叩きます。黙っているとまた叩きます。
 姐さんがまだ寝ていなかったらしく、二階から降りて来ました。
 姐さんは私に声をかけましたが、返事をしないでいると、自分で表へ行って、戸を少し開きました。
 三人ばかり、男のひとが、のめるようにはいって来ました。倉光さんのポマードの髪がぴかりと光りました。
 私はもう起き上っていました。倉光さんたちが何か言ってごたごたしてるまに、そっと室から出て、草履をつっかけ、裏木戸をあけ、外にぬけ出ました。うちの中がこれ以上男くさくなってはもうとてもたまらず、外の清い空気が吸いたかったのです。
 深い霧でした。それでも、霧の中がぼーっと明るいのは、月の光りがさしていたのでしょうか。
 そのような霧を、私は夢で見たような気がします。濃い深い霧で、少しも動かず、遠くまで、高くまで、じっと淀み湛えているのです。月はどこにあるのか分らず、ただぼーと霧の中が明るいだけです。

 小さな道を行き、少しく上ると、河の堤防の上に出ます。
 河の水は、霧の下を、音もなく流れていますが、見通しは利きません。遠くで、太鼓の音がしていました。この夜更けに、お祭りの太鼓をまだ打っているのでしょうか。そのかすかな音に、ぼんやり耳をかしていますと、あの男くさい家も、空気もだんだん遠くへ退いてゆくようで、気持ちも落着いてきました。私は堤防をかみへ歩いてゆきました。
 轍のあとが少しついてるきりの、広々とした堤防です。木立もなく、草原だけで、春草はまだ臭を出していません。何にもなく、人影もなく、ただ深い静かな霧が一面にかけています。
 その霧の中から、気づかぬまに、何かの形が浮き出していました。それとははっきり気をつけて見た時には、もう人の姿となっていました。堤防の上ではなく河の上を、こちらへ徐々に近づいてきます。見覚えというほどのものではなく感じに覚えがあるようです。あ、たしかに覚えがあります。キリストの姿です。それも、えらい画家が画いたキリスト像ではなく、世間に流布してる通俗なもの、至るところで見られるような、何の特長もない画像です。それが、河の上を歩いてきます。湖水の上を歩いて渡ったキリストも、この通りだったでしょう。その最もありふれた普通の姿のキリストこそ、私にとっては、最もすっきりしたもの、最も男くさくないもの、最も清らかなものだったのです。
 そのキリストなら、私も愛します。心から愛して、抱きしめてあげたくなります。
 私は身内が熱くなり、うれしいというよりも、感激した気持ちで、そこに跪づき、顔を伏せ、両手を胸に組み合せました。
 長い間のようでした。キリストは近づいてきませず、衣ずれの音もせず、香ばしい息も感ぜられません。私は顔を挙げました。キリストの姿は消えどこにも何も見えず、一面に濛々とした霧ばかりです。私は泣いていました。泣いてはいましたが、期待を裏切られた気持ちはみじんもなく、自分自身を清らかにすがすがしく感じました。
 私は立ち上って、歩きだしました。まだ眼には涙をためながら歩きました。ぼーっと明るい深い濃い霧の中を、ゆっくり歩いてゆきました。どこへ行くのか分りません。ただ、もう引返すことだけは出来ません。男くさい厭らしい穢ならしいところへは、断じて帰りません。堤防の上をかみてへかみてへと河を溯ってゆきました。



底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]・戯曲)」未来社
   1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「苦楽」
   1949(昭和24)年6月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年9月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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