ので、ほかの人はみんな下の喫茶だけです。けれど、喫茶のお客の中にもちょっと区別があって、お酒に摘み物ぐらいは出すこともあります。このお酒について、殊に洋酒について、井上さんは監督がたいへん厳重です。ポマード男、倉光さんに酒を飲ませすぎはしないかと、じわじわ嫌味を言うのです。やきもちをやいてるのか、からかってるのか、どちらとも分らない調子です。姐さんの方でも、弁解するのやらしないのやら分らない、あいまいな調子です。聞いていて、じれったくなります。どちらとも、もっとはっきりしたらよさそうなものなのに。ほかに話すこともないから、そんなことを酒の肴にしてるのでしょうか。私はジンをなめながら、息に薄荷の香りがますます強くなります。
 そうして、皆酔って炬燵にごろ寝をしました。
 ふと、私は眼を覚しました。胸がむかつき、息苦しくて、叫びました。
「男くさい、男くさい。」
 実際に叫んだかどうか分りません、叫んだつもりでした。同時に、飛び起きました。
 まったく、男くさかったのです。井上さんが私の方へ寄ってきて、私の方を向いて、鼾まじりの息をしています。その息が、私の頭や顔にかかったに違いありません。温い、なまぐさい、すっぱいような息です。口を少しあけて、煙草のやににそまった黒い歯を出し、その奥の深い喉から、音を立ててくさい息が出て来ます。酒の臭いだけではありません。
「男くさい。」
 息をつめて坐り直しました。
「どうしたのよ、寝呆けているわね。」
 姐さんが私の方を見て、そしてすぐ向うへ寝返りうちました。
 その背中の方へ、取り縋るようにして、私ははいってゆきました。大きく息をしました。へんに眠れません。室の中ぜんたいが、厭らしく穢ならしく思われます。土間の方で、かさかさ音がします。黒犬のクマが体をかいてるのです。しっ、しっ、叱っても、まだかさかさやっています。だにか皮膚病かでしょう。あんな犬をなんで飼ってるのか、姐さんの気が知れません。ただ真黒な小さな普通の犬で、どこからか迷いこんで来たのです。泥坊よけにもなりはしないでしょう。
 そのつまらないクマを、ポマードの倉光さんが特別に可愛がるから、おかしくなります。だいたいあのポマードがおかしいのです。長い髪をバックにして、ポマードをこてこてぬりたて、靴先よりももっと光らしています。女の日本髪に鬢附油を用いることはありますが、そ
前へ 次へ
全10ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング