も革の手袋が似合うのです。動物的です。毛が多すぎます。髭、胸も、脛も、あちこちに毛がたくさんあります。井上さんときたら、鼻毛が濃く、耳の穴にまで毛が生えています。それに気がついてから私は、ひと頃、うちの店や電車の中などで、男の耳の穴をそっと盗み見たことがあります。もじゃもじゃ毛のある人が多いのには、びっくりしました。
 毛が多くて、革に似た皮膚をしていて、その上、臭がくさいのです。酔った人の息となったら、一層たまりません。いつぞや、井上さんが酔っぱらって、姐さんに甘えて言った言葉を、私は忘れられません。
「酒を飲んだ時の君の息は、はっかの香りがするよ。」
 姐さんはきれい好きだし、すっきりしてるから、酒を飲めば、息に薄荷の香りがするかも知れません。けれど井上さんは、反対に、息がくさく穢くなるばかりです。男のひとは皆そうです。熟柿のような息と言いますが、熟柿がどんな臭いか私は知らないけれど、もっともっとひどい臭いです。そのくさい臭は、酒のせいばかりではありますまい。体内にそうしたものがあるからです。体内にむかむかするようなものがあるからです。
 そのくさい臭と一緒に、同じ布団の中にはいったら、どんなことになるのでしょう。思っただけでもぞっとします。胸わるくなり、気が遠くなるかも知れません。姐さんが平気でいるのが、私にはふしぎでたまりません。井上さんのお世話になっているから、我慢しているのでしょうか。
 ある時、寒い晩でしたが、下の室に炬燵をこさえて、皆でごろ寝をしたことがあります。井上さんが大勢のお客さんを連れて来て、二階は散らかりぱなし、お島さんは帰ってしまい、後片付けは明日にしようということになったのです。特別のジンが持ち出され、私も水にうすめて飲み、息に薄荷の香りがしてきました。
 井上さんと姐さんとの間には、酔ってくると、しばしば同じ話が繰り返されます。姐さんの方では、東京都のこんな出はずれの河っぷちより、旧市内の方へ帰りたいというのです。井上さんもそれは同意しますが、適当な家がなかなか見つからないそうです。井上さんの方では、髪にポマードをぬりたくってる男について、姐さんに嫌味を言います。土地の呉服屋の若主人で、衣類反物のことについてはこちらがお客さまですが、うちの喫茶店ではあちらがお客さまです。二階の室と特別な料理や飲み物は、井上さんの連れの人だけに限ったも
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