がぼーっと明るいのは、月の光りがさしていたのでしょうか。
そのような霧を、私は夢で見たような気がします。濃い深い霧で、少しも動かず、遠くまで、高くまで、じっと淀み湛えているのです。月はどこにあるのか分らず、ただぼーと霧の中が明るいだけです。
小さな道を行き、少しく上ると、河の堤防の上に出ます。
河の水は、霧の下を、音もなく流れていますが、見通しは利きません。遠くで、太鼓の音がしていました。この夜更けに、お祭りの太鼓をまだ打っているのでしょうか。そのかすかな音に、ぼんやり耳をかしていますと、あの男くさい家も、空気もだんだん遠くへ退いてゆくようで、気持ちも落着いてきました。私は堤防をかみへ歩いてゆきました。
轍のあとが少しついてるきりの、広々とした堤防です。木立もなく、草原だけで、春草はまだ臭を出していません。何にもなく、人影もなく、ただ深い静かな霧が一面にかけています。
その霧の中から、気づかぬまに、何かの形が浮き出していました。それとははっきり気をつけて見た時には、もう人の姿となっていました。堤防の上ではなく河の上を、こちらへ徐々に近づいてきます。見覚えというほどのものではなく感じに覚えがあるようです。あ、たしかに覚えがあります。キリストの姿です。それも、えらい画家が画いたキリスト像ではなく、世間に流布してる通俗なもの、至るところで見られるような、何の特長もない画像です。それが、河の上を歩いてきます。湖水の上を歩いて渡ったキリストも、この通りだったでしょう。その最もありふれた普通の姿のキリストこそ、私にとっては、最もすっきりしたもの、最も男くさくないもの、最も清らかなものだったのです。
そのキリストなら、私も愛します。心から愛して、抱きしめてあげたくなります。
私は身内が熱くなり、うれしいというよりも、感激した気持ちで、そこに跪づき、顔を伏せ、両手を胸に組み合せました。
長い間のようでした。キリストは近づいてきませず、衣ずれの音もせず、香ばしい息も感ぜられません。私は顔を挙げました。キリストの姿は消えどこにも何も見えず、一面に濛々とした霧ばかりです。私は泣いていました。泣いてはいましたが、期待を裏切られた気持ちはみじんもなく、自分自身を清らかにすがすがしく感じました。
私は立ち上って、歩きだしました。まだ眼には涙をためながら歩きました。ぼーっと明
前へ
次へ
全10ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング