んが帰ってゆき、お島さんもちょっと片付けものをし、店をしめて帰ってゆきました時、二階への梯子段の上り口のところで、井上さんは突然、よろけるような風をして、私の背にもたれかかりました。ほんとによろけたのではありません。背中に押っ被さるようにして、両手を肩から胸へまわし、抱きしめてしまいました。熱い息が、頬から襟元へかかります。私は呼吸もとまる思いで、立っておられず、へたへたとくずおれて、そこの板敷につっ伏してしまいました。井上さんは何とも言わず、よたよたと梯子段を昇ってゆきました。
 私は起き上って、体中、着物をはたはたとはたきました。それからまた、顔から首まで洗い、手を洗い、足も洗いました。胸がむかついてき、残ってるウイスキーを、やけに飲んでやりました。どこもここも、男くさくって、穢ならしいのです。そればかりでなく、妙に恐ろしくさえなりました。どんなことが起るか分りません。なにか真黒な怪しいものが、いつ襲ってくるか分りません。えたいの知れない厭らしい恐怖です。
 私はウイスキーを飲んでやりました。何の役にも立たないかも知れないが、クマを檻から出して土間に放ってやりました。クマは土間を嗅ぎまわって、また檻の中にはいってゆきます。私はそれを蹴りつけてやりました。それから布団を引きずり出し、着物のまま頭から被りました。
 表に二三人の足音がします。足音はうちの前で止りました。戸によりかかって、とんとん叩きました。
「もう寝たんですか。」
 酔っぱらってると見えて、大きな声です。
「もう寝たんですか。」
 とんとんと叩きます。
「美枝ちゃん、美枝ちゃん、ちょっと開けてくれ。僕だよ。」
 こんどのは、倉光さんの声です。大きく戸を叩きます。黙っているとまた叩きます。
 姐さんがまだ寝ていなかったらしく、二階から降りて来ました。
 姐さんは私に声をかけましたが、返事をしないでいると、自分で表へ行って、戸を少し開きました。
 三人ばかり、男のひとが、のめるようにはいって来ました。倉光さんのポマードの髪がぴかりと光りました。
 私はもう起き上っていました。倉光さんたちが何か言ってごたごたしてるまに、そっと室から出て、草履をつっかけ、裏木戸をあけ、外にぬけ出ました。うちの中がこれ以上男くさくなってはもうとてもたまらず、外の清い空気が吸いたかったのです。
 深い霧でした。それでも、霧の中
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