い生き方をするのは、何の悪いことがあるか。
ところが、おかしなことが起ってきた。
黒川のところには、以前の仕事の関係上、いろいろな闇物資が持ち込まれることがあった。それが時価よりは遙に安いのである。その中で、靴下とかシャツとかいう日用品の、而も数量の半端なのを、私は時折、譲り受けることにしていた。妹にも少し買ってやった。薄茶のウールの洋服地があったので、スーツ一着分を京子にも買ってやった。その新調のスーツを着た京子は、これまでの黒ズボンの姿に比べると見違えるほど立派になった。それが人目を引いたものらしい。
京子には、女事務員の仲間が数人いる。彼女等の中には、女特有の鋭い勘で、私と京子との関係を気付いてる者がいたようだ。私の男の同僚の中にも、私たちのことをうすうす気付いてる者がいたらしい。それでも、別に問題になるほどのことではなかった。そこへ突然、京子の新調の洋服だ。男にとってはどうでもよいことだが、女にとっては大問題である。京子は仲間たちから新たな好奇の眼で見られ、直接の揶揄まで浴びせられた。京子の方では上手に出て、私からの援助を平然と匂わしたと見える。
その波紋がどう拡がっていったかは、私には分らないが、間もなく私の方へも打ち返してきた。
会社からの帰途、中尾が私を追っかけて来て、顔馴染みの酒場へ誘った。そして焼酎を飲みながら、探りを入れてきた。それも私に対する好意からのことであるから、私にとっては却って厄介なのである。
「君はいろいろな人から金を借りてるらしいが、それほど困ってるようにも見えない。いったいどうしたわけなのか、打ち明けてくれないか。言いにくいことだったら、無理に聞こうとは思わないが、少し心配になるよ。」
「いや、簡単なことだ。」
伯父からの仕送りの約束がとかく後れがちなので、その間のつなぎに借金をするのだと、私は説明した。伯父という架空の人物は常に使っているので、省略するわけにはゆかないのである。
「然し、借金の数が次第に殖えてるらしいじゃないか。現在、幾人ぐらいから借りてるんだい。」
その言葉から察すると、私の借金はもうだいぶ知れ渡って、一般的な話題ともなってるらしい。然し、期日に間違いなく返せばいいわけなのだ。私はそれを言った。
「うむ、それはそうだがね。僕に対しても君はそうだったし、約束を違えたことは一度もないらしい。だが、遂にはどうにもならなくなるよ。僕はそれを心配してるんだ。行き詰まりの日が必ず来る。その時は、どうするんだい。」
「自殺か犯罪か、と君は考えるだろうが、大丈夫、心配はいらんよ。」
中尾はぎょっとしたように私の眼を見つめた。自殺か犯罪か、それを彼は想像したに違いないし、他にも同様な者がいるらしい。然し私のような程よい人間に、そんな大それたことが出来るものか。中尾は突然話をかえた。
「立ち入ったことを言うようだが、あの三上京子ね。彼女に、君は貢いでるか搾られてるかして、だいぶ金を使ってるという噂もある。これは注意しなけりゃいかんね。」
私のことが問題になったのはそんなところからだろうと、私は直ちに感じた。これは全くまずい。私は嘘を言った。彼女に金を借りたことがあるので、御礼心に洋服地を贈っただけで、他意はないし、第一、女に対する礼は厚くしなければならない、などと言いながら、私は少し冷汗をかいた。中尾は信じかねるように、そして不満そうに、焼酎をあおった。
「いろいろ噂にも上ってることだし、用心しなくちゃいかんよ。」
そのようなことで、結局あやふやに終った。私の方では、借金の整理方法もつきかけてるから安心してくれと、中尾の手を握りしめてやった。実のところ、もう大して借金を繰り返さなくともよいところまで、黒川の手にある私の資金は太っていたのである。
会社に於ては、私の周囲に微妙な雰囲気が漂っていた。ひそひそとした噂話、好奇の眼、不安そうな眼、冷淡な素振り、わざとらしい同情的態度など、さまざまなものが私を中心にして埃のように舞い立ってる感じだ。そしてただ雑然としていてまとまりがなかった。それを打診するようなつもりで、私は同僚の一人に借金を申し込んだところ、容易く一万円貸してくれた。意外だった。私はなにか反撥的な気持で、期限のきた他の借金を返す時、その男の机に、謝礼の煙草包みをわざと人目につくほど公然と置いた。それを彼はこそこそと鞄にしまった。ざまあ見ろという思いで胸がすっとした。
そういう雰囲気を背景にして、京子が私に突っかかってきた。彼女は私を避けてる風だったし、私の方でも遠慮して遠のいていたが、突然、アパートに来てくれと言う。その約束の日曜の午後、私は肚を据えて出かけた。何か重大な相談があるらしく感ぜられるし、すべて彼女の意向に従う覚悟をしたのである。
彼女は珍らしく和服を着ていて、よそよそしい丁寧な態度で私を迎えた。私がいつも飲むことになっている通りに、紅茶とウイスキーとを出した。チーズと果物が添えてあった。気重い沈黙が続いた後に、彼女は言い出した。
「あなたはわたしに隠していらっしゃることがおありでしょう。それを、すっかり聞かして下さいませんか。」
「いったいどんなことなの。」と私はそら恍けた。
彼女は私の顔をじっと見た。
「会社のいろんな人から、お金を借りていらっしゃるでしょう。」
「ええ、借りてるよ。」
私は無雑作に頷いてみせた。
「それを、なぜ隠していらしたの。」
ばかげた問いである。人に金を借りてることなど、隠すも隠さないもない、どうでもいいことなのだ。わざわざ吹聴するほどのことでもないのだ。ところが、そうでないと彼女は言うのである。彼女のことで金がかかって困るのだったら、別れてもよろしいと、そんなことまで言い出す。どうも話の筋が通らない。
「君こそ、何か隠してるんだろう。」
突っこんでみると、彼女は打ち明けた。主任の戸田に呼ばれて、さんざん注意されたとのことだ。その戸田の説によると、私は数十人の者から莫大な借金をしていて、いつ破綻を来すか分らない状態にある。破綻を来して、どんな不正なことを働くか分らないし、どんな犯罪を行うか分らない。そういう男との交際は用心しなければいけない。殊に、そういう男から何等かの世話を受けてるとすると、これは一身の破滅になる。既にいろんな噂が飛んでいる。噂はまあ噂として、今後のことに気をつけ、立ち直る覚悟が肝要である。とにかく、私のような男には充分警戒を要する……。
それを聞いても、私は別に驚きはしなかった。ただ、余計なお説戒だと思った。私が不正や犯罪を働き得るほどの者でないことは、私自身がよく知っている。会社の中には現に、いろいろな不正が行われている。関係方面に為されてる贈賄や収賄、物資の横流し、不正な取引などが、或は会社の名に於て、或は個人の名に於て、ずいぶん行われている。殆んど公然と話題になってるものさえある。それらのこと、そしてそれらの人々は、いったいどうなんだ。私の方は何も悪いことはしていない。金は借りても期日には返すし、些少ながら謝礼もしている。京子とのことだって、無理に言い寄ったわけではなく、謂わば自然の同感合意に依ることである。それらすべてに於て、私はつつましく動いてきた。常に分を守って、程好いところで満足しているのだ。そういう私のどこに、不正や犯罪の匂いがあり、或はその萠芽があるのか。
そういうことを、私は静かにそして謙虚に説いていった。ところが、全く思いがけないことが起った。言葉が途切れて、煙草をふかし、ウイスキーを飲んでいると、京子はふいに、大きな声を出した。
「いいえ、あなたは冷酷な人です。」
冷酷とか熱烈とかは問題になっていなかった時のことだ。彼女は何を考えていたのであろうか。いいえと何を断定したのであろうか。私は思考の手掛りを失ってぼんやりしていると、彼女の眼は妙にぎらぎら光って私を見据えた。
「あなたは、わたしが姙娠することを、避けていらっしゃるでしょう。」
それもまた唐突なのだ。もっとも、私にはまだ結婚の意志はなく、彼女もそうらしいし、随って、彼女に姙娠されたら困ると思って、それを避けてきた。私の程好い行動の一つなのである。然しそのことが、私の借金とか仮定の犯罪とかに、何の関係があるのだろうか。彼女のぎらぎら光る眼は、霧がかけるように曇ってきて、こんどは泣き出した。
「あなたは、わたしをほんとに愛してはいらっしゃいません。もうお別れしましょう。」
私が黙っていると、彼女は泣きながら言った。
「あなたは仮面をかぶっていらした。その仮面を脱いで下さい。」
私はなにかぎくりとしたが、なぜだか自分にも分らないのだ。実のところ、私は仮面などつけるほど悪辣ではなく、むしろ素直で謙虚ではないか。
「僕は仮面をかぶってやしないし、その必要を感じたこともない。いつも、ありのままの素顔で押し通してるつもりだ。」
ふしぎに、いや当然かも知れないが、私の心は冷たくなっていった。そして彼女をヒステリックだとさえ感じた。彼女の頬は蒼ざめて澄んでいる。それを見ながら私は、彼女の日常の顔の変化、皮膚が美しく冴えたり醜くくすんだりする変化を、ふと思い浮べて、それは単に生理的変化にすぎないものだろうと妙なことを考えた。
「僕の顔はいつも素顔だよ。ただ、生理的変化がないだけだ。」
彼女はきっと顔を挙げた。その眼に敵意めいたものが閃めき、頬の肉が痙攣的に震えた。彼女は自分のコップにもウイスキーをつぎ、残りを私のコップにすっかり空けてしまった。
「お酒には勝手に酔って、そして女に向ってはいつも、生理的変化、生理的変化って……。」
「いや、そんな気持ちで言ったんじゃないよ。」
「よく分りました。仮面には生理的変化はございません。」
私は口を噤んだ。いきなり抱きついたり接吻したりすれば、私の粗忽な言葉も冗談になってしまうかも知れなかったが、彼女から私を押し距てるものが何かあった。それは、程好きを守るという私の主義だったであろうか。
私はウイスキーに程好く酔ったが、彼女とはもう融和の出来ない気持ちで、その室を出た。封筒に入れた一万円の紙幣を、黙って彼女の机の上に置いてきた。そのようなものを前以て用意していたことを、その時はっきり意識して、頭は熱くなり心は冷え冷えとした。
京子は会社をやめた。他に転勤したものらしい。私へは改まった挨拶もなく、私の方からも手を差延べようとはしなかった。然し、彼女のことは妙に心の隅に残った。それが当然のことかも知れないが、どこかに曇りが出来たような感じだ。そして私は、自然的にもまた故意にも 会社では[#「故意にも 会社では」はママ]すべてに冷淡な態度を取った。口はあまり利かず、笑うことは少く、事務はのろのろとやり、誰にも迎向せず、誰にも逆らわなかった。京子の退職と関連して、私に向けられる視線はなお執拗になったが、私はそれをも無視した。
ところが、或る日、事務の処理にちょっと手間取り、而もその日のうちに片附けておきたかったので、一時間ばかり居残って仕事をした。
そこへ、西山さんが茶を持って来てくれた。
「御勉強ですな。」
善良そうな笑顔をしている。彼はしばしば居残って仕事をするほどの勤勉家である。もう五十歳を越した小柄な男で、いつもにこにこしていて、何の屈託もなさそうで、どの点から見ても善良そのものの感じだ。私が仕事を終えたのを見届けて、茶を持ってきてくれたものらしい。
西山さんは私のそばに腰を下して、私と同じく茶を飲み煙草をふかした。
「お淋しいでしょう。」と彼はぽつりと言った。
私が何のことか分らずにぼんやりしてると、京子さんが会社をやめたんで……と事もなげに言ってのけるのである。それから一つ二つ世間話をして、彼はまた事もなげに尋ねた。
「あなたはだいぶ借金があるとのことですが、いったい、全部でいかほどになりますかな。」
全く世間話の調子なのである。会社の多くの者が問題にしてる私の借金のことも、善良な西山さんには全くの日常茶飯事らしい。私は曖昧な返事で
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