や、そんな気持ちで言ったんじゃないよ。」
「よく分りました。仮面には生理的変化はございません。」
私は口を噤んだ。いきなり抱きついたり接吻したりすれば、私の粗忽な言葉も冗談になってしまうかも知れなかったが、彼女から私を押し距てるものが何かあった。それは、程好きを守るという私の主義だったであろうか。
私はウイスキーに程好く酔ったが、彼女とはもう融和の出来ない気持ちで、その室を出た。封筒に入れた一万円の紙幣を、黙って彼女の机の上に置いてきた。そのようなものを前以て用意していたことを、その時はっきり意識して、頭は熱くなり心は冷え冷えとした。
京子は会社をやめた。他に転勤したものらしい。私へは改まった挨拶もなく、私の方からも手を差延べようとはしなかった。然し、彼女のことは妙に心の隅に残った。それが当然のことかも知れないが、どこかに曇りが出来たような感じだ。そして私は、自然的にもまた故意にも 会社では[#「故意にも 会社では」はママ]すべてに冷淡な態度を取った。口はあまり利かず、笑うことは少く、事務はのろのろとやり、誰にも迎向せず、誰にも逆らわなかった。京子の退職と関連して、私に向けられ
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